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あべの古書店二代目の日々

9月25日

昭和63年に刊行された『高校生のための静岡県文学読本』にこんな記述がある。

《三島由紀夫のライフワークともいうべき『豊饒の海』四部作のうちの第一巻、『春の雪』出たばかりのころであったから、多分昭和四十三年の夏のことであったと思う。下田市の、駅に近いある書店で本稿執筆者が立ち読みをしていると、背後から、
「僕の本、少ししか置いてないんだなあ。どう、売れてますかあ」
という大きな声がした。渋く、濡れたような独特の響きで、どこか聞き覚えのある声だと振りむくと、緑色の前あきのTシャツを着た小柄の男が、本屋の主人に話しかけていたのだが、それが三島由紀夫と気づくまで、しばらく間があった。本屋の主人の求めに応じて、出たばかりの『春の雪』にサインをすると
「沢山売ってよね」
と気軽な調子で言い、外に停めてあった、空色の大きな外車(多分リンカーンコンチネンタルではなかったろうか)に乗って、まさにさっそうと消えたのであった。》

むう、空色のリンカーンコチネンタルで町の本屋を訪れる三島。なんだか白昼夢みたいだ。その男は本当に三島由紀夫だったのだろうか? 日本全国、役場のある町ならば、ひとりくらいは三島由紀夫のそっくりさんがいそうな気がする。いまも下田の書店には『春の雪』サイン本があるのか? この稿の執筆者名が記されていないのが残念である。


9月16日

沓谷霊園で行われた大杉栄・伊藤野枝・橘宗一八十周年追悼集会に参加した。会を主催してきた「大杉栄らの墓前祭実行委員会」は、今回を持って解散。
その後場所をかえ、辺見庸が「八十年忌、そして現在(いま)」のお題で講演。辺見庸の講演は「淡い」と思った。
自分は昨年初めてこの墓前祭に加わった。着流しでぶらりと現れた向井孝の姿が印象的だったので、ずっと彼の姿を探したのだが、ついに見つけることが出来なかった。帰りがけに「向井孝は亡くなった」という会話を耳にした。


9月6日

これは一般化されるのだろうか。
一部では、旧態依然とした3Kの古本屋を「黒い系古書店」、ブックオフに代表される明るくきれいな新古書店を「白い系古書店」とする呼称が成立しつつあるようだ。このまますすめば、「黒古書店」「白古書店」と固定されるのだろう。ううむ、…判りやすいような、…気もする。

カウンターカルチャーがサブカルチャーになって、いつの間にか「サブカル」と固定された。人気女優の無名時代の水着写真集や古手の漫画雑誌、あるいは音楽誌やアニメ誌を、業者までがサブカルと呼んで憚らない。

「すいません、このあたりに『ゴス』の本を売っている古本屋はありませんか?」
「ああ、それでしたらもう少し先の黒古書店…」
ってなことになる、かな? そういえば「ゴス」を「ゴスペル」と勘違いする小咄があった。どちらも「黒い」からいいけど。


9月5日

不可解な小説を見つけた。
『空気モグラ』は「季刊文学的立場6号」(八木書店刊/1982)に掲載されている。作者は「新人」と添え書きがある山岸嵩。ウェブ検索すると同名のNHKプロデューサーがいる。たぶん同一人物だろう。というのはこの小説が、NHKの「キャロル裁判」をネタにした物語だからだ。
「キャロル裁判」の傍聴に通う主人公は、N放送局の空調整備士である。裁判の原告たちはモデルとなった人物が特定できるように描かれている。N放送局を解雇されたTが、NHKでキャロルのドキュメンタリーを製作した龍村仁であることはすぐに判るし、キャロルも矢沢永吉も実名で登場する。ところがこんな記述に出会って首をかしげた。
《もっともその間にバンド・キャロルは解散して、矢沢永吉や柳ジョージという一人一人の歌手になっていったように、原告たちもフリーのジャーナリストとして名を知られだし、傍聴人の顔ぶれも変わっていった。》

《「ねえ、キャロルって矢沢やジョージがそのむかし組んでいたバンドでしょう」》
はて、柳ジョージは「ジョニー大倉」の間違いではないのか。しかしこんな単純なミスをするとも思えない。ここにはなにか文学的な仕掛けがあるのだろうか? それとも柳ジョージが実際にキャロルに在籍していたことがあるとでも?


9月3日

ボーデュ神父の『静岡県宣教史』によるとこういうことだ。
《ミュガビュール神父は優秀なカテキスタを二人使っていた。静岡のヤコブ・鈴木正隆と藤枝のペテロ・中田幸治である。神父は竹屋小路(静岡)の教会が布教には甚だ地の利を得ていない事を知った。彼は土地を探した。たまたま二つの城郭の間に住居を持っていたさる酪農家が土地を売りたがっていた。ここには良くない噂がひろまっていて、自殺愛好家が東の方の内堀の深みで身を投げ、近所の人達は夜な夜な幽霊に見舞われるので恐怖に襲われていると言われているからである。こうした訳で土地は買手がなかった。神父は無心な散歩を装って土地を測量しはじめた。略々二ヘクタール(五千坪)ある。どんな素敵な教会が立つだろう。将来どんな素晴らしい学校が出来るだろう。一八九七年(明治二九年)に神父は藤枝の教会をここに移させた。其処には事務所、寝室、食堂、応接間があった。(初期の使徒的英雄主義よさらば)カテキスタには二部屋あった。最後に他の二つの大部屋が十六坪の聖堂に改造された。教会が先立つ時代の恐怖すべき迫害者、徳川家康の土地に復活したと、クリスト教徒達は力をこめて語るのを止めなかった。》
1903年(明治36年)、サン・モール修道女会は「仏英学校」を開校する。生徒は4人だった。1912年(明治45年)、学校は「不二高等学校」に改名し、第二次世界大戦中、1945年(昭和20年)6月20日の空襲で破壊されたが、再建後、1951年(昭和26年)に「雙葉」と校名を改めて現在に至る。同校がいまの場所にあるのはお濠の幽霊のおかげなのだろうか?
幽霊にまつわる逸話がもうひとつある。
《一八八四年(明治一七年)テストヴィド神父は浜松から押山、佐々木、殿岡の三家族を招き寄せて、家を貸して住まわせた。その家は鷹匠町、市電の停留場から僅か離れた、外壕に面した処にあった。》
翌年には信者は三〇名を数えたため、先の家だけでは間に合わなくなり、神父は別の家も借りることにした。
《さて近処に一軒の空家があったが、おばけが出ると言う噂である。そんな事はかまわない、神父は迷信等は信じてないから、ひそかにと言うのは当時はまだ法律によって外国人が土地や家を持つことが禁じられていたからであるが、その家を手に入れ、安く入手できたのを喜んでいた。然し我が信者達は大笑いした。神父は一夜だけしか泊る事が出来なかったからである。神父は只ならぬ物音に目を覚ますと、耳をそばだてた。その時、軽いゆれ動く髪の毛が障子紙をなぜ、殆ど聴き取れない程の足音が近ずいて来た。神父は飛びおきて燐寸をすった。おばけは消え去った。次の月、研屋町の別の家に皆は移った。》
神は信じていてもおばけは信じない。それでもおばけと出会ってしまうのは、おばけが否応なしに実在するからか、それとも神を信じているが故に、おばけも体験してしまうのか。


9月2日

いろいろ在庫しているものだ。『静岡市勢要覧 昭和33年版』が出てきた。あるある、「文化施設」の項にCIE図書館の事が写真入りで出ていた。
《静岡日米文化センター 所在地 追手町244番地
 昭和23年米国によつてC.I.E図書館として開設、昭和28年1月から日米文化センターと改称、葵文庫の分館となつた。
 蔵書洋書11,325冊。邦書1,677冊。その他パンフレット7,138冊、雑誌105種その他視聴覚材料。
 閲覧状況 閲覧人員63,582人。貸出冊数 洋書2,947冊。邦書1,353冊(32年度)》
和洋の蔵書数の差に、施設の性格が歴然。それから「閲覧人員」という言葉。これは入場者数ということだろうか? 6万人を越える来館者がありながら、貸し出された本は4千冊。15%か。
中央図書館葵文庫のデーターも記載されているので、そちらと比べてみると面白い。
《閲覧状況 閲覧人員 129,786人。閲覧冊数 125,198冊。うち貸出16,950冊。(32年度)》
「閲覧冊数」が「閲覧人員」より少ないはずがないと思うが、それはまあいいとして、閲覧者に対する貸出率は8%に満たない。あらら、静岡日米文化センターよりはるかに低いではないですか。これらの数字はなにか奇妙な気がする。もしかしたらこういう計算自体、根本から間違っているか?


8月30日

『静岡文藝 昭和28年版』が見つかった。山中散生は編集委員、詩の部門の選者であり、選後評を書いている。山中散生自身の詩作品も一篇収録されている。
タイトルを見てハッとした。『ヨーロッパの何処かで』。

このエリュアール追悼の詩は『黄昏の人』に収録されている。『静岡文藝』に発表された時は『ヨーロッパの何処かで』だったタイトルは、『ヨーロッパのどこかで』に変更された。そして《(一九五三、三、三)》の日付がある。

『シュルレアリスム資料と回想』の終章、「ヨーロッパのどこかで 跋にかえて」は、『本の手帖 ブルトン追悼号』(1966年11月)のために書かれたものだ。
《ポール・エリュアールの死(一九五二年十一月十八日)の直後、私はつぎのような語で始まる一篇の詩を発表したことがある。

  ヨーロッパのどこかで
  死んだ筈の君の影の部分が
  ぽつりと垂れさがってきた
  重く この思いも
  わづかに濡れていた

  君の名は忘れたが
  凍結した日本の夜ふけの
  舗道は暗く
  暗い風は
  前方の十字路を廻った(以下省略)

 いま(一九六六年)、アンドレ・ブルトンの死を知って、私はこの作品に流れている感傷に、ふたたび落ち込むのであった。》
※「(以下省略)」は原文のママ

山中散生の文章に詩のタイトルは記されていない。山中散生は末尾でもう一度この詩を引用する。
《 舗道の上の沈黙は
  ゆるく揺れて
  この全身をささえ
  閉ぢた店舗のウインドに
  回想のかけらが消えてゆくのを
  僕は呆然と眺めていた

 この詩の断片は、冒頭にかかげたエリュアール哀悼詩の第四節であるが、この言葉をあらためて私は、ブルトンの霊にもささげたい。》
『ヨーロッパのどこかで』は五節から成る。第三節、第五節を出さなかったのは、そこには山中散生とエリュアールの私的交流があまりにも生々しく、感傷的に表出されているためだろう。胸を締めつける哀切さに満ちている。
山中散生は彼とシュルレアリスムとの関係が太平洋戦争によって断絶されたことにふれ、《いちど消された私自身の火が、ふたたび燃えさかることなく、とろ火に終った》と「ヨーロッパのどこかで」に記した。しかしその言葉の前にはこうも書いている。
《戦後になって、イギリスの若いシュルレアリスト、S・W・テーラーが一九四九年に来日した際、戦中・戦後に海外で公刊された多量の文献を、ブルトンから依頼されて、届けてくれたことがある。》
1949年(昭和24年)、山中散生はどこにいたのだろう。山中散生はどこでブルトンからの資料を受け取ったのだろう。
JOPK(NHK)静岡放送局が附属の放送劇団を設立したのは昭和25年。山中散生は静岡にいる。山中散生はひそかにシュルリアリスムへの復帰を期していたのではないか。その矢先のエリュアールの死。


8月29日

「占領期図書館政策研究の意義と方法」で知ったこと。
《アメリカでは1940年代に図書館学は知的装置として社会的認知を受けた。戦争遂行のメディアとして連邦政府において新聞、出版、ラジオ、映画とともに位置づけられた。軍隊には図書館が設置された。》

《アメリカの軍隊には、軍事活動のためのレファレンスサービスと軍人のレクリエーションを目的とした図書館が必ず備えられていたということである。占領軍には、部隊ごとに図書館がおかれていた。また占領行政を司ったGHQ/SCAPそのものにも、統計資料局(SRS後に民間史料局CHDと改称)という調査業務、図書館と文書館を兼ねた組織が存在した。各局ごとにもそのような組織が置かれていた場合がある。》
アメリカ軍は戦場に冷蔵庫とジュークボックスを持って行くようだが、図書館まで持ち込みとは驚いた。
静岡のCIE図書館には兵士の読書用として刊行された特殊な書籍が置かれていたそうだ。内容は小説はもちろん歴史から天文学まで多岐に渡っていた。いたって平易な英文で書かれ、当時の日本の高校生程度の英語力で充分に読みこなせるものだったという。
憶測にすぎないが、CIE図書館はGHQの駐留時にはアメリカ軍のための図書館として機能し、その後「日米文化センター」に性格を変えていった、ということだろうか?

『新 現代図書館学講座13 図書及び図書館史』(北嶋武彦編著/東京書籍/1997)はCIE図書館についてこう解説している。
《このGHQのなかでとくに教育・文化関係の占領政策を担当したのは、民間情報教育部(CIE)であった。
 CIEは、昭和20年[1945]秋から、日本の主要都市にCIE図書館を設置する準備を進めていたが、翌年、東京・日比谷に設置したのを手はじめにつぎつぎと設けられ、昭和27年[1952]には全国21か所に及んだ。
 このCIE図書館に対する評価にはさまざまな見方があるが、図書館関係者をはじめ、日本国民に、市民に対する図書館サービスの理念を基礎とするアメリカ的公共図書館のあり方を具体的に提示したことは、その後の日本の図書館、とくに公共図書館に大きな影響をあたえた。なかでも、明るい雰囲気のなかでの開架式による自由な資料の貸出し、図書館員による親切な参考業務(レファレンス・サービス)、当時のいわばニューメディア的存在であった16ミリ映写機を利用した日本民主化のための教育映画の上映など、視聴覚資料を利用した集会活動は、それまで日本の図書館関係者が経験したことのない新鮮なものであった。》


8月28日

この数日、「おい、知っているか、戦後の一時期、静岡でCIAが…」などとあちこちで言いふらしてしまった。恥じ入った。
情報提供者にさりげなく問いただしたところ、やはりCIAではなく「CIE図書館」だった。半世紀近い時間が経過し、その間たびたび目にしたテレビや映画の影響は大で、すっかり記憶は「CIA図書館」にすり替わっていたらしい。それはそれでCIA的だな、という気もするが。
ただ、「日米文化センター」という呼び名は後になってからのもので、開設当初は「CIE図書館」の看板がたしかに掲げられていたというが、さて、どうすればウラがとれる?

「占領期図書館政策研究の意義と方法」というページも参考になった。

胡乱な組織という印象はまだぬぐえない。

ところへ別の筋から新情報。
『寺町三丁目十一番地』の著者、渡辺茂男(児童文学者・翻訳家)が「CIE図書館」と関係していた。以下、『静岡県と作家たち』から引用。筆者は市原正恵。
《静岡商業から旧制専門学校に進み、戦後、清水港で外国船員相手の通訳をしたのち、静岡のCIE図書館で働いているとき、欧米の優れた子どもの本に出会う。
 敗戦後の数年間、静岡市城内のCIE図書館は、十代から二十代のある者たちにとって文化の発信地でありえた。美しいカラーに彩られた雑誌の数々、ハードカバーの本の上質な紙の匂い。とりわけ白い壁にグリーンのウインザー・チェアーが並んだ児童室で、マリー・ホール・エッツや、ロバート・マックロスキイや、ケート・グリーナウェイの、優れた美しい本に出会った日のしあわせ。そのしあわせを生涯の仕事としてしまったのが渡辺茂男である。館長の推挙で慶應義塾大学に創設された図書館学科の一期生となり、卒業後フルブライト留学生としてウエスタン・リーザーヴ大学修士課程で図書館学専攻、ニューヨーク公共図書館児童室に勤務ののち帰国。ライブラリアンとして働く希望であったが、母校慶応の図書館学科に講師として迎えられ、のち教授に。》


8月27日

「占領期における図書館政策の推移―CIE関係文書による」というウェブページを見つけた。

ひょっとしたらCIAではなくて、CIE(総司令部民間情報教育局)だったのか?


8月26日

見つけた! 痕跡は必ず残るものだ。『静岡市の100年写真集』(静岡新聞社刊)に「CIA図書館」の写真があった。
《中堀のボートと日米文化センター
中堀は市民にとって心やすらぐ憩いの場だった。戦前の武徳殿の後に日米文化センターが建ち、今は附属中学校体育館が建っている。昭和27年3月。》
なるほど、現在では「CIA図書館」という名称は使わず、「日米文化センター」と呼ぶわけか。武道場(武徳殿)の建物がそのまま使われていたと思っていたが、戦火で焼けたのか進駐軍が破壊したのか、その跡地に新しい建物を建てたと判った。

写真はもう一枚あった。
《刑務所のレンガ塀のある風景
右側が日米文化センター、中央の城形が歯科医師会館。今はすべて姿を消し、右側は総合社会福祉会館、左は市民文化会館になった。昭和33年。》
これで昭和33年まで存在していたことが判った。
「日米文化センター」+「静岡」でウェブ検索をかけるとこんな文章がヒットする。
《当時、今の青葉小学校の横に「日米文化センター」と言う施設があって、此処でモダンジャズのレコードコンサートが有ったりしたものです。》
ううむ、いかにもCIAっぽい。


8月25日

戦後間もない静岡のことを調べているうちに、またまた妙なモノにぶつかった。
「CIA図書館」。
終戦後、進駐軍が静岡に駐留した。その折り、駿府城祉内、現在の婦人会館の横にあった武道場を接収し、「CIA図書館」を開設した。CIAとはもちろんあの「中央情報局」である。こそこそした秘密施設ではなく、入り口には「CIA図書館」という看板を掲げ、広く市民に開放された施設だったそうだ。駿府城祉の周辺には10あまりの学校が集中していたから、好奇心の強い学生たちが面白半分に立ち寄った。置いてある図書は洋書ばかり。が、どういうわけか『春の珍事』の翻訳本がまぎれこんだりしていたらしい。人から聞いた話だ。

驚いた。そんなものがあったとは。「CIA図書館」という言葉もはじめて知った。大いに気になるのだが、どうやって調べればよいのか途方に暮れる。頼みの綱の『ふるさと百話』にも「CIA図書館」の事は出ていない。インターネットで検索し、「CIA図書館」が《全国主要都市に設けられた占領地宣撫活動の拠点》だということだけは判ったが、それ以上はさっぱり…。ことによると説明解説するまでもない基本知識なのだろうか?


8月24日

するがさん(するが書房)が『彷書月刊 特集:名古屋モダニズム』(1995年12月号)を持ってきてくれた。「山中散生と『超現実主義の交流』」という文章がある。執筆者は名古屋市美術館学芸員の山田諭。ボン書店から刊行された山中散生の著・訳書が紹介されているが、自分のごとき「町の古本屋」では、この先もこうした書物は入手どころか目にする機会すらないだろう。自分の関心は山中散生が文学・芸術史上に残した業績よりも人物そのものにあるから、とりわけ無念ということではないけれども、それでもこんな風に書かれていては、多少は読んでみたいという気が起こるのが人情では。
《しかし、何といっても重要な文献は、『超現実主義の交流』(一九三六年/ボン書店)である。エリュアール、ブルトン、ツァラ、ペレ、プラシノスからの「直送の書却しの原稿」の翻訳と、エルンスト、マン・レイなど12作家の「同じく直送の最新作」の図版を集成した本書は、国際的にも貴重なシュルレアリスム・アンソロジーであり、名古屋のというよりも、日本のシュルレアリスム運動が達成した記念碑的な著作と言える。》


8月23日

今野裕一は『ペヨトル興亡史』(冬弓舎刊)にこう書いている。
《青木画廊で開かれたウィーン幻想派の展覧会に寄せた瀧口さんの詩があまりにも素敵だったので、そのタイトル「夜想」をもらって雑誌のような形にしたかった。瀧口さんに許可を求めて原稿も依頼すると、「『夜想』という名前は使って下さい」ということだったが、原稿はいただけなかった。》
瀧口修造の詩、『夜想』は、ペヨトル工房の「夜想19号 幻想の画廊」に掲載されている。編集後記にある以下の文章は、たぶん今野裕一のものだろう。
《創刊号の扉にも書いたように、かつて「夜想」は、青木画廊がブラウアーを中心にした幻想画の展覧会を催したときに、瀧口修造さんが、オマージュとして寄せられた文章のタイトルであった。それをたってお願いして雑誌に使わせていただいた。当時扉に書いた決意の文章は、今は気はずかしくて正視に耐えないものだが、根本的にその気合いは忘れてはならないだろう。そして決意の実現にむけて進まなければならない。》
ううむ、若いとあれやこれやの威勢のいい宣言をしてしまうものだ。人ごとではない。自分も身に憶えがある…

※敬称略


8月22日

するが書房より『シュルレアリスム資料と回想』(美術出版社刊)を購入。立派な造本にたまげた。皮背、銀箔押しの印章、口絵カラー16頁、口絵モノクロ68頁、収録図版220余点。
《資料は、先輩や同僚の協力を得て、さらに補完することも可能であるとは思ったが、本書所収の図版は、数種を除いて、すべて私の所蔵資料によることとした。それは、私自身のシュルレアリスム回想という意味を、この本にもたせたかったからにほかならない。》
山中散生の手元にあったこれらのシュルレアリスム資料は、現在どこに保管されているのだろう? ブルトン、エリュアール、エルンスト、シャール、ダリ、マン・レイ、ツァラ、ベルメールら錚々たるシュルレアリストたちの「私信」はどうなっているのか?

名古屋市美術館が資料を集めていたのでは?」という情報を耳にしていたので、ちょっとサイトをのぞいてみたら、おやおや、「瀧口修造展」をやるんだ。生誕100年なのか。夜想復刊にはグッドタイミングなのかも。


8月21日

『黄昏の人』は父の蔵書ではなかった。
さては著者からの寄贈本かと問うたが、静岡を去って以降の山中散生と父には交流はなかった、そもそも当時は山中散生が高名なシュルレアリストだったとはまったく知らず、もし判っていたら詩集でも著書でもなんでも買い込んでかたっぱしから「著名入り本」にしたのに、と父は言う。その頃はまだ古本屋になろうとは夢にも思わなかったはずだが(笑)。
店で『黄昏の人』を買った憶えもない。この本の存在さえ失念していたが、偶然、倉庫で探し物をしていたら出てきたそうだ。

つながる可能性がある人物が二人いる。染色家の芹沢や柳宗悦、バーナード・リーチと親交があった白沢良。白沢良は全国に知られたコーヒー店「ういんな」の店主だった。そのかたわらラジオドラマの脚本を執筆し、また一時期、ストリップ小屋を経営していたこともあるという(未確認、伝聞)。もう一人は、郷土史研究にも活躍した美術家・版画家の小川龍彦。小川龍彦も放送劇の台本を書いている。

少しずつ調べていくしかない。


8月20日

『静岡文藝 昭和27年版』に再度目を通し、見落としていた記述に気づいた。「県内の文芸活動」と表題された、各分野の概況。「詩」の項にはこのように書いてある。
《また本県在住ではないが、出身者の長田恒雄氏の「現代詩研究」での仕事、これは中央で大きな仕事を残すだろうし、また静岡放送局長の山中散生の郷土詩壇での後輩指導は地味な仕事ながら本県詩壇にとってかけがえのない尊い存在であり、二十七年度における氏の残した仕事、これは特に大きく評価されねばならないであろう。》
むむ、不覚。そもそもの出発地点に答があったとは。


8月19日

「これはお前にやる」と親父がよこしたのは山中散生の詩集だった。『黄昏の人』。國文社「ピポー叢書」の一冊。発行は1956年、装幀は北園克衛である。奥付には「限定200部」と記されている。親父はこの本を売るつもりがなかったようだ。たぶん自分の蔵書だったのだろう。

『黄昏の人』は山中散生が「戦後十年間に書いたもののから選んだ(ママ)」作品集で、『静岡文藝 昭和27年版』に掲載された「夕暮のにぶい反射のなかで」も収録されている。
あとがきの末尾に「昭和三十年十二月 松江にて」と記しているから、この当時、山中散生は親父が言ったように島根のNHKにいたのだ。

それからこんな文章もあった。
《巻頭の作品「雪國」は十年間、札幌に住んでいた当時の作品であるが、現在、山陰の暗鬱な雪空の下で、十年間の作品をまとめるともなれば、この作品が序詩的役目を果してくれそうである。》
すると山中散生は、名古屋−札幌−静岡−松江、のNHK各局を渡り歩いたという事か?


8月18日

静岡近代文学研究会編『静岡県と作家たち』(静岡新聞社刊)に「山中散生」の名を探す。索引がないので、関係がありそうな項をざざっと斜め読み。そういえばある作家が、索引を備えていない本はダメだ、と自著で辛辣に語っていたが、その本自体に索引がなかったのは、なんとも痛ましい事であった。

目を通しているうち、なんとなく気持ちが荒んでくる。郷土の作家として紹介されている某は、以前ある新聞の学芸欄に、酒に酔って暴れることが文学人の魂魄であるかのように書いていた。こういう輩が巣くっているちっちゃなちっちゃな地方文壇。
《この間、県内の詩的事項として重要な出来事に昭和二六年五月中部日本詩人連盟(現中日詩人会の前身)の結成大会が浜松市公会堂で行われたことである。委員長に丸山薫(一一〇頁参照)、副委員長に山中散生、殿岡辰雄、事務局長に菅沼五十一、常任委員に浦和淳らが就任した。》
収穫はこれだけ。


8月17日

名古屋の書店、「書物の森」から『周縁のモダニズム』を取り寄せた。
「書物の森」店長の高橋さんは、『周縁のモダニズム』を刊行している「人間☆社」の主宰者でもある。また、ペヨトル工房が解散した時は真っ先に、断裁されるの本の保護救済に尽力した。現在も「書物の森」では4000冊のペヨトル本を在庫している。

『周縁のモダニズム』を読み返した。ちゃんと書いてあった。
《しかし、一方で、山中はNHKに勤務していたほどの常識人であった。》
NHKに勤務することが常識人の証であるかは留保したい。静岡時代の山中散生は「奇人」で知られていたようだから。いやいや、「常識人」の山中散生でさえも「奇人」と呼ばれてしまうほど、NHKという所は超・常識が支配していたのかもしれない。シュルレアリスムなり。
それからこんな箇所が気になった。
《太平洋戦争の拡大とともに戦時下における緊迫した政治状況が、シュルレアリスムに関する研究を冷却せざるをえなかったと彼は告白している。「いちど消された私自身の火がふたたび燃えさかることなく、とろ火に終わったことが彼(ブルトン)との関係を自然に断絶させることになった」と。》
戦後の山中散生は既にシュルレアリスムへの失っていた? カギカッコ内の文章は『シュルレアリスム資料と回想』からの引用である。
するが書房に立ち寄ったついでに、山中散生の著作をなにか持っていないかきいてみたところ、『シュルレアリスム資料と回想』があるということなので、早速注文した。


8月16日

『ふるさと百話』(静岡新聞社刊)の最終巻は、末尾に全二十巻の総索引があり、静岡の事物を調べるのにすこぶる簡便でよろしい。その巻だけ持っていてもあまり意味がないが。
当店は出来るだけ『ふるさと百話』を全巻揃えて在庫するよう心がけてはいる。が、容易には商品の補充がきかぬのがこの商売。品切れの巻が出て歯ヌケになることがままある。そんな時にかぎって調べものの必要が生じ、見たい項目は売り切れの巻にあったりする。
幸い目的の第15巻は在庫していた。「山中散生」の名前は中川雄太郎が執筆した章、「郷土の画人」に登場する。
《洋画部門で県展審査会などに尽力された方々を挙げると、熱海に住まわれたこともある高畠達四郎、JOPK(NHK)静岡放送局長だった山中散生が評論家として加わり、また本県出身異色の画家北川民次も忘れることはできない。》
たったこれだけの記述だが、山中散生=NHK静岡放送局長、だったことは判った。
それにしても不思議だ。『文藝静岡』の編集委員・選者だったり、美術展審査会の評論家であったり、なかなかの活躍ぶりなのに、シュルレアリストの顔がまったく見えない。まさか誰も知らなかったのか? あるいは山中散生が意図的に語らなかったのだろうか?


8月15日

身内から知らされた話に大いに驚いた。
戦後まもない頃、全国各地のNHK支局が附属の「放送劇団」を設立した。 静岡放送局も自局の放送劇団を持ち、劇団員をオーディションで集めた。 ぼくの父がその一期生、母が二期生である。 劇団設立の指揮をとっていたのが、当時NHK三奇人と呼ばれていた人物の一人、NHK静岡放送局長「山中散生」だった。 (ちなみに三奇人のうち二人までもが静岡放送局に在籍していたという。) この話は何度か聞かされていたのだが、父は「ヤマナカサンセイ」と言っていたので、それが「ヤマナカチルウ=山中散生」だとはついぞ気づかなかった。

その後、山中散生は島根の局に転勤となったそうだ。

だが本当だろうか? シュルレアリスト山中散生がNHKの静岡放送局長?

そこで、

さっさと検索をかけてみればよかった。こんなページをあっさり見つけた。
《やはり愛知県の生まれで、名古屋高商在学中に西脇順三郎の従弟にあたる横部得三郎教授からフランス文学を学んだ詩人・山中散生(1905-1977)はNHK名古屋放送局に在職の傍ら、ポール・エリュアールやアンドレ・ブルトンらフランスのシュルレアリストと文通を重ね、》
どうやら山中散生がNHKの人間だったのは確かなようだ。


8月14日

山中散生の名前をしっかりと記憶したのは『ボン書店の幻』(内堀弘)を読んでからだ。 それ以前にもどこかで目にしていた名に違いないのだが、気にとめることがなかった。

昨年11月、名古屋で催された「ペヨトル工房解散」関連のイベントを観に行った折り、詩書専門書店の「書物の森」に立ち寄った。そこで『周縁のモダニズム』という本を購入した。 戦前の名古屋モダニズムや名古屋のモダニストたちを紹介するこのローカルな本に、山中散生が登場する。それで、山中散生が名古屋人だと知ったのだった。 『周縁のモダニズム』には山中散生と静岡の関わりを示すような記述があっただろうか?  残念ながら、確かめようにもその本がもう手元にない。

『ボン書店の幻』に手がかりを探す。
《昭和十一年五月、ボン書店は二冊の詩書を同時に刊行する。》
その一冊が山中散生の『童貞女受胎』である。
ここでまずひっかかった。どういう因縁か、ぼくは昔から「昭和11年」という年に惹きつけられる。 それは「2・26事件」が起きた年、「阿部定事件」があった年だ。
二、三年前、旧家へ古本の買い入れに行った。物置から戦前の探偵小説が大量に出てきた。 その中に『少女地獄』(夢野久作)の初版本があった。 発行年は昭和11年、それは夢野久作の没年でもある。
戦前静岡市にあった若竹座という劇場に関心があり、ぽつぽつ調べていたところ、崔承喜が若竹座で新作舞踊発表会を行ったときのパンフレットとチラシが、店の在庫にあるのを見つけた。これも昭和11年のもの。

それはさておき、『ボン書店の幻』にも山中散生と名古屋のつながりはちゃんと書かれていた。
《当時名古屋にいた山中散生は鳥羽茂からこの完成品を送られて「こんな装丁」であることを初めて知った。》
「当時」とは昭和11年、「完成品」は『童貞女受胎』の特装本である。
気になるのは「名古屋にいた」という書き方だ。別の土地にいた時期もあるのだろうか、例えば静岡とか。


8月13日

『静岡文藝 昭和27年版』は、静岡県教育委員会が編纂した「昭和二十七年中に創作または発表された県内文芸作品」のアンソロジーである。 あべの古書店の郷土関連書籍がおかれた一角で、随分長い間売れることなく埃をかぶっていた。 所収の作品は、総勢504名の作家による文芸評論・詩・短歌・俳句・川柳・小説が1156篇。 この本の帯文に「山中散生」の名を見つけたのはまったくの偶然だった。
《推せんのことば
  山中散生
 本書は県文学界の華麗な且つ重量感にみちたパノラマであるばかりでなく、多くの優れた才能を発見し、それを成長させるための有力な基盤になると思う。》
はたして山中散生は、「あの」山中散生だろうか? 「あの」ブルトンやエリュアールと私的に文通し、「あの」ボン書店から、「あの」『童貞女受胎』を出した、「あの」シュルレアリストの山中散生なのだろうか?

『静岡文藝 昭和27年版』をひもといて、いくつかの事が判った。
山中散生は高杉一郎、三枝康高らと共に本誌の編集委員である。
選者として詩の部門を担当し、選後評を書いている。
収録作品に山中散生の詩一篇(『夕暮のにぶい反射のなかで』)がある。
また、表紙の題字は山中散生が揮毫したものである。

「あの」山中散生に間違いないように思うが、まだ断言は出来ない。 そもそもなぜ山中散生が静岡県教育委員会の出版物の編集委員をつとめているのだろう。 他の委員はみな静岡県民である。 山中散生は名古屋の人だったはず。 静岡とどのようなつながりがあるのか。

掲載された山中散生の詩をあらためて見たところ、名前の横に小さく「(静岡市)」と記されていることに気づいた。 ということは山中散生は「静岡市民」なのだ。 ますます判らなくなった。 同名異人かもしれない。


5月27日

今週で5月も終わりか。
あっという間に3ヶ月が過ぎている。
知らぬうちに奥歯の加速装置が起動しているか?
『たかがバロウズ本。』を買ったのは、あれは3月だったかな?
Y書店に平積みになっていて、その横にケース入りの『血と薔薇』復元版がやはり平積みになっていた。

3月1日

むう、こんなのがあるぞ! いけないけど。

2月6日

これ、いくことにしました。