菊次郎備忘録・其の二 『白磁の茶碗』 ごめんよ、邪魔するぜ。 牡丹餅を一皿くんな。それから汁粉もな。 お茶? ああ、熱いやつを頼むぜ。 熱っ!!(かちゃん) おいおい、いくらなんでもこいつは熱すぎるぜ。 なんだい、泣くことはねえだろ? あ、茶碗、割れちまったな。 これ、値の張る代物なのかい? まずいことになっちまったか? え、茶碗はどうでもいいが、俺が火傷をしたんじゃないかと心配だ? なんだ、そんなことで泣いていたのか。 おいらなら大丈夫だよ、こう見えてもな、人一倍、体は頑固に出来てんだ。 そりゃまいいが、この壊しちまった茶碗を弁償しなけりゃな。 なに、おまえがかた代わりするからいい? ああ、そりゃいけねえよ、落としちまったのはおいらだ、おいらが払う。 え、駄目だ? どうしてもか? おまえの気がすまねえ? よし、それじゃあこうしよう。 この白磁の椀をな、おまえにやるよ。 割れた茶碗の代わりに使ってもいいし、道具屋へ持っていって銭に換えてもいい。 二朱にはなるはずだ。 値打ちもの? ああ、そうだ。ほら、ここんところを見てみろよ。 椀の内側に赤い筋が一本、走っているだろう。 こいつはな、この世に二つとない、いわく因縁つきの茶碗なんだ。 え? 聞きたい? こいつの由来をか? ああ、そりゃあ構わねえが。 そんなに昔のことじゃねえ、 これ(小指)をちょいとしくじっちまってな、ほとぼりがさめるまで、 伊豆のとある湯治場に潜んでいたと思いねえ。 半月ほど逗留していた宿で、不思議な話を聞いたんだ。 この宿にはちょうど丑寅の方角に、今は使われなくなった離れの座敷があるんだが、 何でもそこに夜な夜な、女の幽霊が出没するってんだ。 そう、これだよ(幽霊の手つき)。 その界隈じゃ有名な話だったらしいぜ。 権現様が江戸を開幕した頃、諸国巡礼の旅をしている坊さんが、その離れの間に泊まった。 翌日発つと言いおきながら、二日三日と日をのばし、一月を過ぎても、いっこうに宿を離れる様子がねえんだ。 おまけに坊さんは部屋にこもりきりで、ろくすっぽ飯もとらねえときている。 どう考えたって妙だぜ。 ある晩、女中が離れの前を通ると、部屋の中から話し声が聞こえる。 一人は坊さん、もう一人が、なんと若い女の声なんだ。 聞き耳をたてるとな、なにやら艶っぽい話をしているんだ、これが。 女中もついつい魔がさしちまって、 障子のすきまから、そっと中を覗いたと思いねえ。 青白く痩せ衰えた坊さんが、お銚子手にしてさしつさされつ。 (茶店の娘に)ああ、ちょいとお茶をついでくれねえか。 はて、この坊さん、御酒など頼んだか、と女中は思ったね。 さてさて相手の女はどんな奴、と、その姿を見るなり、女中は腰を抜かしてひっくり返って、気を失っちまった。 坊さんの連れってのはな、女の声で喋る骸骨だったのさ。 ウ熱いィ! かんべんしてくれよ、どこについでんだ。 ええ、恐くて震えちまった? しょうがねえなあ。 翌朝女中は一部始終を主人に告げ、こりゃ大変だと一同が駆けつけた時には、もう手遅れさ。 旅の坊さん、冷たくなって、息を引き取っていたそうだ。 え、おいらかい? あたりめえだろ、おいらがその部屋に泊まらなかったら、話にならねえじゃねえか。 「へえ、なんだか面白そうだなあ。なあ女将、ひとつおいらをその離れの間に泊めちゃあくれねえか、おいらが幽霊の正体、見きわめてやるよ。そのかわり、宿代はただってことでどうだ。」 「ええ、ようござんすよ、けれども何がございましても、わたくしどもは責を負いかねますが。」 「ああ、心配はいらねえよ。」 真夜中、草木も眠る丑三つ時、コツンと小さな音がした。 ふと見れば、床の間に置いてあった白磁の椀が転げている。 おかしいなと思う間もなく、背後に物の気配。 振り返ると、どこから現れたのか、こんくれえの白兎がそこにいるんだ。 「なんでえ、驚かすなよ、おめえどっから入ってきたんだい」 「お願いがございます、お願いがございます、わたくしどもの主人が、あの白磁の椀の中に閉じこめられているのでございます、どうかあの椀をうち割り、主人をお救い下さいませ。」 いや、だからさ、そう言いやがったんだよ。 ええ? 誰がって、その白兎がさ。 「いきなりそう言われてもな。やだぜ、茶碗を割ったら、とたんに髭面の入道が出てきて、とって喰われちまうなんてのは。そんときゃお前が身代わりになって喰われてくんな。おいおい、泣くんじゃねえ、洒落だよ、洒落」 おいらは茶碗を手に取った。 「へえ、この中にねえ」 小刀のつかでコオンと打つと、茶碗はもののみごとにまっぷたつだ。 ふわあっといい匂いのする霞のような霧のようなものが出てきてな、その中に古めかしい女官の装束を着けた娘が立ってんだ。 ところがよ、笑わせるじゃねえか、娘の頭のところにはな、兎の耳が二本、こう生えてんだ。 が、霞が晴れると、それ消えた。 「おい、おまえ、もしかして」 「はい、お察しのとおりでございます。わたくしは一万一千と百八日、白兎に姿を変えられ、その呪法は白磁の椀に封印されておりました。これでようやくわたくしも天に戻れます。お若いかた、このご恩は決して忘れませぬ」 コツンと小さな音がしたんで、そちらを見ると、床の間に置いてあった白磁の椀が転げている。 おかしいな、あの茶碗は、いまおいらが割ったはずだが。 いつの間にやら娘の姿が消えている。気がつけばもう朝だ。 「夢でも見ていたのか?」 おいらはひっくり返った白磁の茶碗を、床の間に戻した。 するとどうだい、夕べはなかった朱の筋が一線、茶碗を断ち割るように入っているじゃねえか。 そう、それがこの茶碗なのさ。 ああ、そういやあ、白兎に姿を変えられた娘、おまえによく似ていたなあ。 や、長居をしちまったな。いくらだい。 え? 勘定だよ、餅と汁粉の。 いらねえ? なんで? ああ、そうかい。 そんなら、うん、ごちそうになるよ。 え、今夜、おまえんちに? 白兎が出るかどうか、おいらと一緒に御酒でも飲みながら、この茶碗を眺めてみたい。 そりゃ、まあ、かまわねえが。 うん、おいらかい? 芝居者だよ、水銀座(みずがねざ)の。 ああ、名前か。 そうだなあ、三代目・菊次郎だ。 ○幕