しずおか演劇観劇記

いま、しずおかの劇団はどうなっておるのかの報告 by AyameX
 以前、静岡県が主催した「地域」演劇のフォーラムで、伽藍博物堂の代表者が「自分たちが東京で公演を行うのは批評を求めているからだ」という発言をしていた。彼によれば、静岡の観客ははっきりとものを言わないらしい。ふううん、静岡には批評がないのかなあ、と俺は漫然と思った。

 「批評」の不在は本当に観客の側に問題があるのだろうか。静岡の観客は「批評」とは無縁なのか。静岡の観客では演劇の「批評」はできないのか。批評を促すようないかなるものも、彼らの舞台には存在しなかったのだという可能性はないのだろうか。

 東京公演の動機が「批評」だとする胡散臭さはともかくとして、俺は 現在 演劇を批評することの困難について考えた。そもそも「演劇批評」は演劇に有効なのだろうか? 次のようなディスコースはどうだ。

「演劇は常に現在形なのだ。舞台上に現象し観客と対峙する瞬間の行為だけが正しく演劇と呼べるのであって、理念・理論や記述によっては演劇は語り得ぬものである」

 つまり演劇は検証不可能な表現であるから、劇団の歴史や、既に過去となった上演に拘泥するのは、演劇の自由さに嫉妬する批評バカのたわごとであるというわけだ。うむ。その通りだ。この論旨の正しさによって、「演劇批評」は沈黙を強いられている。

 ところが昨今の静岡の演劇状況はすこぶる活況を呈している。皮肉なことに、この興隆には批評の不在が一役かっているのである。「批評」という、表現の天敵が駆逐されてしまったため、文化の生態系が崩れかけている。淘汰が行われないのだ。

 東西陣営が対立するモダニズムの時代には、たしかに演劇を取り巻く批評的ディスコースが存在した。とはいえその多くは演劇の問題をイデオロギーの問題に置き換えた、組織(演劇集団)に対する批判であった。あるいは個別の技芸に対する品質保証。歌舞伎、能、舞踊ならばいまだに技芸を批評軸とすることができるだろう。しかし演劇の「本体」は技芸ではない。

 ポストモダンな世界では、作品(上演された演劇)はそれ自身では自らの「価値」を主張することは出来ない。批評なき場では作品はタブララサだ。すなわち、SPACらせん劇場劇団RIN高校の演劇部の発表会ロバート・ウィルソン午後の自転も、すべて同じレベルにある。一直線に横並び。そんなばかな、何か間違っているのではないか。直感的にはこう思う、優劣があるはずだ。そう、優劣はある、だがそれを語ることができない。決定的な問題は、SPACとらせん劇場と劇団RINと高校の演劇部の発表会とロバート・ウィルソンと午後の自転が、同じレベルではない、ことを立証できないということなのだ。批評の不在が横並びを保証する。はなはだしく不快な現状。

 だから、

俺は不断に問い直す。俺が見たものを、俺が見たこととして記録する。他者にさらしてゆく。 それが検証されざるもの、修正されえぬものであるならば、仕方がない、俺の記述は「歴史的に正しい」のである。

 たとえば半世紀の伝統を持つ劇団静芸。かつての代表者が「赤旗振って云々」と声高に語っていた頃の理念はどうなったのか。

 劇団火の鳥は、七十年代の終わり、稽古場を公演の宣伝のために訪ねた18才の少年(俺だよ)に、「それではここでオルグ(その時、初めて聞いた言葉だった)してください」とその場で口上をさせ、「そういう演劇じゃあノレないなあ、ごくろうさま」と断言した「歴史」をどのように継承しているのか。

 自称照明家のIは、六、七年前、障害者の人たちと駿府公園でテント劇の公演を行い、俺の友人の小さな建築屋を通じてリース屋から資材を借りだした。Iはその経費をいまだ払わず、書類や名義上はIの名前が出てこないため、やむなく支払いを肩代わりさせられた建築屋は泣き寝入り。こんなセコイ奴が現在も堂々と演劇をやっているとは、どういうことなのか。演劇は歴史を不問にしていいのか。

 現状ではミソもクソも横並びである。演劇を行う、行っているということにおいて差異はない。繰り返すが、演劇や文化の名のもとでは、SPACもらせん劇場も劇団RINも高校の演劇部の発表会もロバート・ウィルソンも午後の自転も、すべて同じレベルなのだ。

 俺は俺の立場を表明するために、1991年に「有害コミックの規制」を批判した高橋源一郎の発言を引用する。

 文化は「クズ」の集積そのものなのである。もし「表現の自由」というものがあるとするなら、それは「クズである自由」なのだ。それがわからないなら、文化について口出しすべきではないのである。

 俺が「批評」しようとしているものの99%はクズだ。俺はそこにろくでもない作者や人間がいて、ろくでもない劇団や演劇があることを報告する。いま・そこにあるものは、クズなのだと指摘する。クズとそうでないものを選別する。

 クズやろくでなしをどうするかは俺の問題ではない。クズの始末は文化上の環境問題だ。クズの排除は俺の望むところではないが、それを守るつもりもない。ゴキブリをカブトムシのメスだと見誤ってはならないし、露出狂をストリッパーと同一視してはならないことは確かなのだ。俺は「ゆきゆきて、新劇」だからね。