ART CRITIC / CRITICAL ART #1 

松野崇写真展・EROS EXPOSED
1995年10月12日〜10月24日 静岡・にっせんれん画廊




 松野崇写真展・「EROS EXPOSED」は、写真というメディア、そしてジャンルの現在をめぐる問題が複雑に錯綜する、極めて刺激的な写真展である。
 まず、会場入口のショーウィンドウに置かれたインスタレーションが目をひく。汚れた灰色のキャンバス地に包まれた等身大の人形が、作業用の無骨なロープで荒々しく拘束され、カットアップした女性身体の写真断片をその上に張り付けて、異形を屹立している。
 会場に入ると左手の壁ぞいに、95×150の八枚のモノクロ写真パネルが、更にひとまわり大きな木枠のパネルに裏打ちされ、ちょうど屏風のようにつづら折れに立ち並んでいる。それだけでも観賞者を圧倒する大きさを有する写真には、女性の乳房、唇、目、性器、臀部、手などの肉体の部分が多重に焼き付けられている。
 中央には90cm四方の黒い木箱が二つ置かれ、観客が上からその箱をのぞき込むと、箱の底に、宙に浮くように設置されている、やはり身体各部をコラージュした写真パネルに出会うという趣向になっている。
 ほとんどの女性観客が、特に若い女性ほど、実に楽しそうにくったくなく作品に見入っているのとは対照的に、男性客はどこか遠慮がちに作品を眺めながら、当惑したような口調で「これはどの部分ですか」などと言っている会場の様子はなんともほほえましいものであった。
 会場右手に視線を転じると、黒いボードに固定されたフレームが四点、壁面に掲げられていた。明らかに傾向の異なるこれら四点の作品は、白い和紙を印画紙に用いた裸体写真であった。このような技法をなんと呼ぶのか、私は寡聞にして知らぬが、和紙に感光剤を塗布し、そこに画像を焼き付けているのだと推察する。あたかも作者が溶液を塗り付けるブラシの筆跡が、そのまま和紙の内部より画像を引き出したかのようだ。
 同じく会場右手の壁面には、この画廊が以前ブティックであった時に試着室として使われていた空間が二つ、そのまま残されていて、松野はここをピーピングルーム(覗き部屋)にみたてている。一方の空間は、全面を黒紙で被い、そこを身体の一部分の写真で埋め尽くしている。写真は、ショーウィンドウのインスタレーションに貼られたものと同系である。他方の空間も、同じく、ショーウィンドウのインスタレーションに対応するものだ。ここには毛布にくるまれた等身大の人形が、幾重にも巻かれたガムテープで拘束されている。だが、このオブジェに貼りつけられているのは、なんの変哲もない風景写真であった。
 ところで、この個展では、作品の外部に奇妙な表象が見受けられる。それは松野の名義・署名の一貫性に混乱が生じているという事実だ。松野は過去の作品には『松野崇』と署名してきたが、今回、例えば和紙の作品には『ミカサ松の』と署名している。また、個展の案内状のタイトルでは、松野の名義は『ミカサ松野』が使われているのだが、会場のポスターには『松野崇』と『ミカサタカシ』の二つの名が併記されていた。いったい何故、松野は混乱しているのだろうか。実はここには松野が無意識にかかえている、写真家のアイデンティティーをどこに求めるのか、という重大な問題が隠されている。俺トイウ写真家ハ、何ヲモッテ、写真家ノ正統トスルノカ?
 私は松野の作品の多くは知らないが、これまで私が実際に目にしてきたものは、いずれも非常に作家性の強いものだった。それは写真の上に金箔を貼り重ねてゆく精緻な工芸品のような作品であり、それは巨大な布に印画されたフラッグであり、今回の和紙を用いた作品もその系譜に連なるものである。一点物だというこれら作品の性格は、写真の「複製芸術」という概念から逸脱しているため、松野への評価は、写真家よりも現代美術家/造形作家としてのそれのほうが先行していた。もちろん松野は「これも写真だ」と言い切る。だが、一目で松野の作品と判る強烈なスタイルの中に、写し撮られた本来の映像は埋没する。松野が自作に『松野崇』と署名すればするほど、「写真家・松野崇」の名は失われていくのである。松野が自称「金箔シリーズ」の継続をためらった要因はここにある。(作品に対する不当な評価も、充分に心理的ダメージを与えていると私は思うが、いずれにしても松野自身は、そう深くは考えてはいない)。
 さて、今回の個展にあたり、松野は『松野崇』の名を捨て、『ミカサ松野』として製作を開始した。これは『松野崇』を匿名化することで、写真家の無名性を獲得しようという試みであり、昨今流行の「私写真」に対する意識下での反発である。また、「エロをやりたかった」という松野本人の言葉も、「私写真の大家」への強い関心をあらわにしている。 ところがである、モノクロの裸体写真にしても、各部をクローズアップした裸体部分写真も、松野が意図したような「卑俗・猥雑」という意味での「エロ」たりえてはいない。そればかりか、またしても松野は、その写真を引用した四点の美しい「写真工芸品」を作り上げ、御丁寧に署名まで入れてあるのだ。この自己矛盾が入口のポスターに『松野崇』の名をデカデカと掲げ、同時に『ミカサタカシ』なる誰も知らぬ人物の名を併記するという不思議を引き起こしているのだろうか?
 だが、作品を子細に検証するうちに、この写真家の驚くべき特異性が浮かびあがってくる。それは、松野は被写体に対して、いかなる感情/関心も持ち合わせていないという事実だ。写真は多かれ少なかれ、写される被写体と、それを写す撮影者の関係性が表出されるものだが、撮影者の側に被写体へよせる関心が存在しない以上、写し出された画像が表象するものは、スーパーマーケットの防犯カメラが撮ったような、意味性を欠いた純粋映像なのである。被写体となった女性からは一切の人格が剥奪されている。肉体の部品だけがある。しかしそこには、女性の肉体を部分に解体するための思想性がない。拡大されたヘアーを見つめる女性たちのくったくのなさは、撮影者のどのような欲望も見いだしえぬ、その安心感に由来する。セクシュアリティが排除されているのだ。ましてや叙情性などがあろうはずがない。そして、この対極に位置するのが「私写真」なのである。したがって、ボンデージ風に梱包された人形の上の写真からも、試着室の壁全体を埋め尽くす写真群からも、一切の意味性が欠落している。観賞者は、「無意味な裸体部分写真」と「拘束された人形」との間から、容易にテキストを導き出すことが可能だが、「無意味な風景写真」と「拘束された人形」の関係性に言及するのは困難な作業だ。「ショーウィンドウと試着室」という、テキストを生成させるには絶妙のセッティングが、まったく生かされていない。それに対し、「覗き部屋」のコンセプトは見事に成功している。狭い試着室の中で、それが裸体写真であれ風景写真であれ、いかなる被写体であっても、観賞者は「視る」という行為そのものの快楽に没入するのである。
 中央の黒い箱の中の写真を見る時も、観賞者は同様な快楽に触れる。観賞者が箱をのぞき込む身振りは、その昔、カメラがまだ大きな木箱だった頃、写真師と呼ばれる人々が黒い布を頭から被り、彼らの木箱をのぞき込むその行為を再現している。ここには写真家の「撮影行為」が物質に置換されているのである。
 金箔を貼ろうと、和紙に印画しようと、松野の写真画像そのものは意味を持たない。観賞者の情動を誘引するような、いかなる関係性も松野と被写体の間には存在しない。ところが、ここに転倒が出現する。今回展示されているパネル写真群と、人形や試着室に貼られた写真群では歴然とした違いがあるのだ。パネル写真群は強度な意味性を持っている。もちろん被写体はいかなる意味も生じさせてはいない。個別の被写体ではなく、すべてのパネル写真群が、松野と写真の関係性を明確に宣言しているのである。これらのコラージュされた写真には、長い経験を持つ写真家だけが体得した、高度な焼付けの職人的技術が表出されている。ハイテク・カメラとそれに伴う大量のDPEカメラマンの出現によって、「撮る」技術はもはや重要ではなくなりつつある。だが、「焼付け」は依然として経験と熟練が求められる作業であり、松野は彼の技術をいささかの自負とともに、その作品に開示している。いや、松野は写真におけるあらゆる職人的技術に、写真家のアイデンティティーを見いだしているのである。松野の意識は、生まれて初めてカメラを手にした少年や、150年前、初めて写真というものを見て、驚異の念に打たれた人々と同じ位置にいる。カメラのレンズを通して被写体を「視る」行為に魅せられたのではない。撮影に必要な資材を集め、被写体を撮影し、フィルムを現像し、焼き付ける、その全ての工程を愛着を持って楽しんでいる。松野は写真術という魔術そのものに魅了され、呪縛されているのだ。
 松野が「EXPOSED」した「EROS」とは何だったのか。言うまでもなく「写真」である。すなわち、「EROS EXPOSED」は写真についての写真展だが、おそらく松野自身はそれを自覚してはいないだろう。
 俺トイウ写真家ハ、何ヲモッテ、写真家ノ正統トスルノカ? 松野は自問し、混乱している。だが、既に答えは出ているのだ。一介の「写真師」であること。それが松野という写真家のアイデンティティーなのである。
 「私写真」の台頭は写真師の匿名性を放逐し、尊大な自我が被写体と偏執的に結び付いた「私」写真家たちを氾濫させている。戯れにカメラを手にした者が、一夜にしてスター「私」写真家となる時代である。被写体の前に写真家が立ち、そして作品の前にも写真家が立っている。観賞者は写真家をひとしきり見つめた後、作品を見る。作品はあらかじめ署名されているのである。松野が「私写真」を否定することはないだろう。それもまた、写真だからだ。にもかかわらず、「EROS EXPOSED」は「私写真」への痛烈な批判という意味を形成しているのだ。
 聞くところによれば、松野は地元の写真関係者たちからは「異端」と見なされているという。はなはだしい誤解である。松野に対するこうした不当な評価が、凡百の「写真家」たちの、「批評」を回避する逃げ口上となり、やがては写真表現の衰弱を誘引するのだ。自我を捨てた者だけが、表現の暗闇の奥へと躊躇せずに踏み込んで行くことが出来る。それを「異端」と呼ぶ者は、決して聖性を見いだすことはあるまい。
 松野のような「写真師」を孤立させてはならない

 暗室の内部はいまだに写真職人の聖域であり、まだしばらくは露光されることはない。




▲back