ART CRITIC / CRITICAL ART #4 

望月敦子 個展
1995年11月6日−11月30日 ホテルアソシア 静岡ターミナル




 「芸術家は炭坑夫のカナリアである」とはさんざん言い古された言葉だが、静岡在住のペインター望月敦子は、1995年の時代の気配を鋭敏に感知している。
 大戦後の冷戦下で進行していった重大な現象は、差異の消滅であった。大衆化された情報は、あらゆるものを併存・等価関係に置き、核の脅威の前では「個人的な死」など成立しなくなった。ひとたび破局が起きれば、彼我の区別なく、死は訪れる。戦後民主主義をもたらしたものが核ならば、それは死さえも平等に分配しようとしたのである。
 モダンアートも差異の消滅を推進してきた。モダンアートの歴史は、引用の歴史だからだ。様式が即ち表現であり、作品はその検証に他ならない。デュシャン以来、オリジナルなどもはや何の意味を持たず、引用と複製の繰り返しがニセモノとホンモノの区別をなくした。八十年代のモダンアートのほとんどが過去の作品の焼き直し=引用だ、というのは的はずれではない。冷戦終結後の九十年代に入ってもその傾向は変わらず、回顧展は盛況だが、それ以外は「屍体」と「汚物」と「奇形」の氾濫ばかりが目立つ。差異の消滅はエントロピーの果てなのだろうか? モダンアートは表現の袋小路に入り込んだままなのか?
 望月が表現活動を一時中断せざるをえなかった背景には、こうした事象への戸惑いがあったと思われるが、私たち日本人にとって歴史的転換点である1995年の状況は、彼女に再度、表現者という困難な立場を選択させたのである。
 モダンアート(現代美術)がまぎれもなく「現代」であるためには、作品が堅牢な理論によって武装されていなければならない。厳密なコンセプトが表現を支え、その構造はすべからく言語化が可能である。作家が自身の作品のコンセプトを言葉によって言い尽くせぬ場合、それはモダンアートとは呼び難い。「引用」は「盗用」に堕す。またモダンアートという呼称が抽象表現と直結しがちなのは、コンセプトの強度に由来する。具象表現は、表出される対象−例えば風景、人物、静物−への作者の関心が表現の根拠となりえるが、生理の所産であるような表現はモダンの名に値しない。
 では作品に先行する具体物が存在するような場合、その抽象化はいかにしてモダンアートに到るのか? 望月敦子の八点のペインティングは、この質問に対するひとつの解答例でもある。
 望月は、非常に明快な様式(スタイル)を表現の根幹とし、その様式に徹底したこだわりを持っている。彼女の作品群は、色彩の帯(線と呼ぶにはいささか太い)だけで構成されている。原色を多用した様々な色彩の縦方向の帯が並列し、鮮烈な色彩の瀑布を生みだしているのである。ここでは色、それ自体が官能なのだ。帯を作り出す筆のストロークは必ず上から下へと向い、その作業は厳格に守られているため、生理的な運筆を排除し、規定されたコードのもとに作品を創作していることが判る。
 イメージの原型は「滝」だ。過去の作品が青系統の色を中心にして構成されていることからも、この垂帯が「滝」、すなわち流れる水の青から発想されたことをうらずける。それが次第に赤系の色を交え、原色が燦爛とする色彩へと変化してゆくのである。だが、現在の作品から「滝」のイメージへと遡及するのは困難だ。強固な様式は、具体物からその意味性を剥落させる。描かれる対象ではなく、描かれる様式にこだわることによって、「私的」なもの(作者と対象との関係)が解体される。作品のモデルとなった具象は無意味な要素へと転位するのである。ここではレピテション(反復)が重要だ。要素(垂帯)は反復されて作品となり、更にその作品が反復されることにより、同じ構造の別の作品が形成される。この反復が、各作品を通底するコンセプトの存在を明らかにしている。それ単独では何の意味も持たないものが反復され集合し、それらが結合・統一されると、無意味な全体の内から意味のある主体がふいに出現するのである。
 宗教はこうした現象をシステムとして取り入れている。修行はその個別の行為がいかに意味のないものであろうとも、反復される過程で突然、重大な意味を生じさせる。現代の先鋭的なクラブシーンで日常的に発生するトランスも、同様な成立ちを持っている。自閉した空間内の質量が臨界点に達すると、外殻は破れ、異界=外部世界に向かって逃走線が引かれるのである。
 さて、「無意味」の中から立ち現れた「意味」とはいかなるものか? 実は望月自身は、それが何物なのか理解してはいない。正確に言うならば、意図せずに創出したナニカを、言語的に認識してはいないのである。だが意識下のレベルでは知覚してはいる。その証拠に、彼女は今回展示されたの作品群に、謎めいたタイトルを与えているのだ。
 個別の作品には、それぞれchapter1(第一章)、chapter2(第二章)と表題が付けられ、それがchapter8まで続く。つまりこれらの作品は一連のシリーズであり、「八章から成る物語」なのである。では一体何故、「八章」を統括するタイトルが存在しないのか? 
ここに隠されたタイトル、隠された物語とはいかなるものなのだろうか? そのタイトルこそが、作者によって言語化されなかった、あるいは発見できなかった「予期せぬコンセプト」に他ならない。少なくとも、彼女の「私的」な物語などではない。
 ここで細部に注目してみる。望月が描く色帯は、フレームの上から下まで、一直線に引かれているわけではない。画面のほぼ中央で停止しているため、図像は前景と後景に分かれているように見える。しかしながら、帯の一本一本がそれぞれ個別に中断されているので、幾何学的な分割線は現れない。帯は、その下方がわずかに湾曲し、ゆるやかな孤を描く。下端は切断面ではなく先端である。色帯が更に延びたならば、上から下へと向かってきたラインは反転するだろう。
 自然界の中には、この帯に類似する形状が数多く存在する。植物の蔓の先端や、軟体動物の触手である。即座に連想するのは、垂れ下がった釣り針、フックの類だ。これらは皆、罠(トラップ)の暗喩となっている。この形状と色彩の官能が結び付くとき、望月の表現は強力なセクシュアルトラップとして発動する。当然、色彩は植物の花弁となる。
 仮にここに描かれた事象が「花」だとしたら? 「花」という具体物が抽象化されたのだろうか? 否。意味から逃走した様式が、突如「花」という具象を〈擬態〉したのだ。即ち望月の作品は、有機的な無機物へと変容を遂げたのである。したがって、この名前のない物語の主体は、生物学的な視点から捜索されなければならない。
 セクシュアルトラップは生物の種の保存・繁殖を目的とした、生存本能の産物である。同種の雌雄間に機能するだけでなく、植物と昆虫の関係のように異種間にも作動し、生物間のネットワークを形成する。繁殖が計画されている以上、セクシュアルトラップには必ず「性」や生殖器が介在する。もちろん、だからこそセクシュアルトラップ(性的罠)なのだが、望月の作品は男女の性別を問わず、鑑賞者の性的連想を発動させない。図式化された「性」のイメージを一切排除した、その抽象の巧妙な手口ゆえ、鑑賞者は何の警戒心も持たずに作品を見る。表現の内部に仕掛けられたセクシュアルトラップは鑑賞者が持つ意識の検閲のグリッドをやすやすと通過し、意識下の種族保存の本能そのものを撃つのである。作品が投げかける色彩の快楽・官能に心を奪われた者は、いともたやすくトラップに捕捉される。本能は性的欲望を刺激する。保守的な性観念、つまり、生殖のために目的化された性を正当とするような見解を持つ鑑賞者たちは、熱烈に望月の作品にのめり込むだろう。だが、彼/彼女たちは自身の内部に自発した情動が性欲だとは気づかない。なぜなら鑑賞者が見ている作品には、性的欲望を誘引する対象が存在しないからだ。
 セクシュアルトラップは何を意味しているのか、その背後に存在する主体は何者なのだろうか? 作者の意図がどうであれ、このような有機的な抽象表現が出現させた主体は、『母性』である。そして『母性』とはうすっぺらなエコロジーなど軽くけちらす、暴力的な自然のダイナミズムの総称なのだ。
 長い歴史の中で、男性原理によって築き上げられてきた文明は、自然と対立し、自然を征服しようとしてきた。だが、その拡張、経済成長の限界、自然破壊の限界が指摘され、あるいは一瞬の天災によって文明が容易に破壊されうることを私たちは既に経験してしまった。官僚的なタテ型の情報伝達システムが破綻して以降、それ自体が自然の雛形である母系社会の復権が、急速に進行している。同時に、差異と多様性が復活しつつあり、望月の作品上にも色彩の多様性として提示されている。
 経済・政治が信仰の対象からはずされ、宗教さえもが信じられなくなった時、私たちは何を信じるというのか? 今日の予測不能な時代状況に直面し不安定な心理状態にある者には、『母性』は甘美な誘惑であり、望月の作品は精神の「自然」を目覚めさせる治療装置として不足はない。鑑賞者と作品は、母と子の関係を複製するのである。もしも彼女のペインティングに発現した『母性』が『聖母』ならば、もはや神棚も仏像も教会も必要ないのだ。望月の作品群は、次世紀のイコンとなるだろう。壁面に掛けられたペインティングがそのまま聖所である。
 望月敦子が言語化しなかったコンセプトは『サバイバル(生存)』だ。20世紀の終焉がカウントダウンされる世紀末の消耗戦の中で、モダンアートはいかにしてサバイバルするのか? それはアーティストとしての真摯な問いかけである。アートは何か別の物へと変容するのか。あるいはただ源初(『母性』)へと回帰してゆくだけなのだろうか。
 この「八章から成る物語」にはまだタイトルがない。物語は彼女が望んだようには書かれなかったからだ。望月にとって、サバイバルすべきアートの主体は決して『母性』などではないのだ。彼女は反復を重ね、新たな意味を召喚する。優れたアーティストや先端の物理学者たちは、無から生じる有を体験している。それはやがて私たちも知ることになるだろう。絶望を繰り返すことを恐れぬ者のみが、奇跡を無心に受け入れる。
 断言する、『神は彼女の作品に降臨する可能性がある』。



Ayame−鈴木大治


contact:ayame@fuji.ne.jp

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