ART CRITIC / CRITICAL ART #8 

木下知子 個展
1995年11月23日−12月5日 静岡 にっせんれん画廊




 木下知子の非凡さは、個別の作品を見ただけでは理解しづらい。できる限り多くの作品を、それも一度に鑑賞するべきだ。ぼくは木下はこれまで、その特殊なありようが全く特殊ではない表現を偽装していたために、正当な評価を受けてこなかったのではないか、という気がしてならない。実を言うとぼく自身、今回、個展会場で実際に木下の作品群を見るまでは、彼女の表現の特異性にまったく気づかなかった。
 個展の案内状には木下の作品が一点、−背中に翼がある人物のレリーフ−がプリントされていたが、それを見て、最初ぼくは、木下は宗教画の類の製作者なのだろうと思った。翼を備えた人物ならば、おそらくそれは「天使」であろうし、彼女が描くものが純正の宗教画ではないにしても、題材を西欧の宗教から引いてきているのだろうと推察していたのである。
 三十点ほどの多彩な作品が展示されたギャラリーには、独特の雰囲気がただよっていた。それはまさしく、ぼくたち日本の無信仰者がキリスト教の教会を訪れた際に感ずる、あの印象なのである。清浄、静謐、無垢、厳粛、高貴、神秘、秘蹟、・・・・。木下の作品に「宗教的な」という形容詞が無批判に与えられるのも理解はできる。本来ならばこれらは直接的に宗教性を示唆するものではない。こうした事象は宗教の属性であって、決してその逆はありえない。けれども印象の圧倒的な強制力は、ぼくたちに一方通行を逆走させ、知りもしないキリスト教のイメージへとたどり着かせるのである。ただし押さえておかなければならないことは、木下の作品群はぼくたちに宗教をイメージさせているのはではなく、あくまでも「宗教的なイメージ」をイメージさせているということだ。なぜならば作品を子細に点検してゆくと、明らかにキリスト教のシンボルと確認できるような表現は、一切存在しないのだ。では一体何故ぼくたちは彼女の作品を(ぼくたちがイメージする)キリスト教的と感じてしまうのか?
 まず、もう少し詳しく木下の作品を見てゆくことにしよう。個展会場をざっと一望すると、木下の創作は多領域をカバーしているように思える。平面作品があり立体作品があり、平面ならば油彩、水彩、テンペラ、素描と様々、立体にしてもタペストリーへのドローイング、レリーフや塑像へのペインティング、絵皿と多岐にわたる。先にぼくが「多彩な作品」と書いたのは、こうした事情によるものだが、ここから木下が複芸術家だと言うことはできない。木下はプロフィールどうり「画家」であり、その表現領域をいささかたりとも逸脱してはいない。作品の形式の多様性は、絵画を実現させる支材の差があらわれているにすぎない。立体作品にしても、立体的造形を新たに創作するという意図はなく、立体物の表面に描いているのである。したがってこれらの作品は、すべて絵画として考えることができるのだ。
 しかも木下はたったひとつだけの図像を、執拗に描きつづけている。ぼくは仮にその図像を『独身者』と呼ぶが、それは頭部が奇妙に小さく、身体が奇妙に長く、首から足首までをすっぽりと隠す長衣に身をつつんだ人物である。ぼくが個展の案内状で見た作品は、この『独身者』に翼が生えたバージョンだったわけだが、そうでなくとも『独身者』は男とも女ともつかぬ中性的な容姿をしている。『独身者』の特徴的な服装は、修道者の僧服のように見え、これが鑑賞者がキリスト教を連想してしまう一因でもある。実際には『独身者』の衣装は修道僧に由来するものではない。会場に置かれた木下の作品アルバムで、過去の作品を参照してみると判るのだが、この長衣はもともとはエジプトやモロッコの回教徒の衣服から発想されているのである。衣装は意図的ではなかったかもしれないが、しかし、キリスト教を連想させるような図像操作は、たしかに行われてはいるのだ。『独身者』のポーズのいくつかは、キリスト教のイコン(聖画)から引用されている。鑑賞者が潜在的な記憶から、イメージにイコンを浮かび上がらせることはたやすい。
 絵画の技法から見れば、作品群はペインティングというよりもドローイングである。人物が解剖学的に正確な身体スケールを備えていないことや、画面に透視図的な遠近感がないことなどは、近代絵画の概念では欠点かもしれないが、画材の素朴な質感(紙、板、布、素焼の皿)、あるいは多出する月や星の表象とあいまって、中世ヨーロッパの民衆芸術を想起させる。
 だが『独身者』の特殊なフォルムが意味するものを、ぼくはこう言わざるをえない。多少なりとも図像を読もうとする鑑賞者ならば、『独身者』を男根と看破するのは容易なことだ、と。ならば木下の作品群は、性的欲望の表出なのだろうか?
 ここでぼくたちは『独身者』の表情に注目する必要がある。ほとんどの『独身者』は両の目を閉じているが、二点だけ例外的な鉛筆画がある。まず、頭の上に鳥がとまっている女性の横顔。人物の身体全身が描かれていない作品はこれだけで、ここには男根の形状はあらわれない。もう一つはひざまづく一人の女性を描いたもので、このポーズは聖画の『受胎告知』を引用している。彼女の頭上の空間には開いた花弁(蘭?)が描かれている。もちろん花弁は女性器の暗示であり、成熟を示唆する「開花」が「受胎告知」と連結するのは当然だろう。この二作品には『独身者』のフォルム=男根が表出されず、この二作品に限って人物は目を開いている。帰納的には、『独身者』のフォルムと『独身者』が目を閉じていることは不可分なのだと考えられる。閉じた目が意味するものは「未知」あるいは「知ることの拒否」であり、これらが男根と併置された時に象徴されているものは、実は「バージニティ」なのだ。ただしこのバージニティは女性に固有のものではない。ここに提示されたバージニティは男性性に対立しない。『独身者』が決して横たわらず、常に屹立した状態なのは、男根が否定されずにあるからだ。そのフォルムが男根であるにもかかわらず、『独身者』が中性的だというのは、ジェンダーやセックスの対立が解消されているためだ。また『独身者』がしばしば天使化するのも、性の分類不能化に一役かっている。木下は女性にとってのバージニティと同時に、男性のバージニティも表現しているのである。
 しかしバージニティは決してキリスト教の理念に背反するものではない。むしろ宗教は積極的に内包しようとしているのではないか。では何故、ぼくは木下の作品群が「キリスト教的であること」に疑念を持つのだろうか?
 その解答は『巻物』という題がつけられた何点かの作品にあった。ここには開かれた巻物を両の腕で捧げもつ『独身者』が描かれている。図像の構成は、キリスト教イコンにはよく見られるものだが、イコンでは巻物は布であり、人物が抱えた布の中には必ず幼子=キリストがくるまれているのだ。つまり木下はイコンの図像を引用しつつ、その内部から主体である神の象徴を完全に排除しているのである。これを偶像否定ととらえ、頻繁に描かれる三日月(ムスリムの象徴)、更に『独身者』の衣装の原典をつなぎ会わせれば、イスラム神秘主義の地平も見えてくる。だが結論を急がず、もう少しバージニティの問題を考えてみよう。『巻物』に戻って言えば、イコン上から幼子の図像が排除されてしまった要因は、木下が表現するバージニティにあるのではないか。すなわちバージニティは、誕生を拒絶するのである。それ故、誕生を予告する『受胎告知』の図像を引用した作品には、バージニティが表出されないのである。奇異に思われるかもしれないが、バージニティは誕生=出産・繁殖を拒絶するが、「交合」は否定していない。もちろんそれを推進しているわけでもないが、少なくともバージニティをセックスレスへと結び付けるような、凡庸な意識とは次元が異なる。ぼくが言いたいのは、木下が提出しているバージニティは保守的な性観念ではなく、非常にラジカルな意志のスタイルだということだ。
 繰り返し表出され続ける『独身者』は、すでにひとつの象徴記号と化し、一歩間違えば病的なオブセッションと受けとられかねない。しかも象徴記号が男根の意味をもっているとなれば、なおさら作品の解釈は作者自身の性意識に還元されやすい。こうした表層上の誤読の危険性に対して木下は、作家個人の情動表現を突き放して対処しているようだ。どの作品も蒼い色調となり、生命・誕生を象徴する赤系の色彩はほとんど使われない。その結果、作品には「死」のイメージが強く現れる。先に記した会場の雰囲気や作品の静けさ全てが「死」と通底し、禁欲性を高めるのである(再度注釈するが、ここで言う禁欲性とは生産=出産・繁殖の拒絶につながるもので、「交合」を否定しているのではない)。
 さて、木下の作品がイメージさせるあらゆる事象は宗教に内在する要素だが、主体となるべき神性が発見できない。彼女の作品そのものが「神」なのだ、と言えばたしかにロマンティックな読みではあるけれど、それでは何も言っていないのに等しい(作品を自己完結させないこと、これはぼくたちが作品を鑑賞するための基本だ)。最初に戻ろう。木下の作品には、創作行為の終了によって発生する意味が希薄だ。意味内容は創作以前に既に決定されている。それは『独身者』という象徴記号によって表出されるものであり、創作行為は『独身者』を可視化させる転写に他ならない。いかに形式が変わろうとも、木下が形象として表現しようとしているものは唯一、『独身者』だけなのである。したがって個別の作品間の差異は、『独身者』の図像を支える素材の差でしかない。作品の意味内容はほとんど同一なのだ。これは大量消費社会のキャラクター商品の仕組みと似ている。キャラクター商品の価値や目的は、その形状にも用途にもない。唯一、キャラクターという象徴記号が商品上に転写されることが、キャラクター商品の存在理由である。木下の作品群をキャラクター商品と比較するのは彼女の表現をおとしめることにはならないだろう。キャラクター、あるいはブランドマークという象徴記号が現代の「呪具」であることは間違いないのだ。ならば木下が、彼女の創作・表現行為の内部に、芸術の始原である呪術・魔術を復活させているという位相さえも、ぼくたちは鑑賞の射程に入れなければならない。
 こういうことだ。木下知子の作品によってはられた結界は、内部の空間を聖域化し、そこから宗教的な印象が発生する。仮に彼女の作品に宗教性があるとしても、それは既存のいかなる宗教とも対応しない。たとえていうなら、木下は神がまとっていた衣装のすべてを、何か別のものに着せているのである。作品の様式、形式、素材、これら可視的な要素のどれをとっても革新性や新奇は見られず、保守性に囲われてる。だが、作品が表出するバージニティは非常に過激なセクシュアリティと連動している。バージニティを犯すものは何か。誕生=出産・繁殖である。したがって、もしもキリストの物語にバージニティのシンボルを求めるならば、それは処女でありながら子供を産んだマリアではなく、子供を持たないマグダラのマリアという娼婦なのである。
 ひとつの行為である「性交」は、ふた通りに読まれる。行為が自己目的化した性交=交合と行為が出産・繁殖の手段である性交=生殖だ。キリスト教文化の影響下にある社会では長い間、生殖には聖性が与えられ、交合には穢れを伴う俗性が与えられてきた。そのため宗教上では容認されない「交合」の概念は卑俗なものとして俗世へ追放され、神々の祝福を受ける「生殖」の概念が聖なるものとして保護される事態に至った(こうした二重構造を持ったセクシュアリティは、西欧社会で消費されるポルノ映像に明解な形で噴出する。つまりポルノ映像が観衆に見せているものはあくまでも「交合」であって、決して「生殖」ではないのだという理屈があるのだが、ここでは詳しくは言及しない)。
 娼婦=俗と処女=聖は、性交という行為をはさんで表裏一体となっている。それ故、娼婦が一瞬にして聖女へと転位するロマンが、馬鹿なオジサンたちによってえんえんと語り継がれるのである。もちろん生殖なき性交を禁忌とする性観念は、60年代のカウンターカルチャーの蔓延によってある程度は解体する。けれどもフリーセックス・フリーラブを称揚したフラワーチルドレンたちが生殖行為としての性交を否定したかといえば、そんなことはない。彼らはただ、聖/俗という二分法を無効にし、交合と生殖の概念的差異を見えなくしてしまっただけのである。その証拠に、エイズ以降、日本を含めた西欧社会の一般的な性観念は実質上保守化の傾向をたどっている。宗教者たちが彼らのモラリズムを正当化するために、それみたことかソドムの奴らめ、とエイズの登場を歓迎したことを忘れてはならない。
 こうした現状を踏まえれば、交合を容認しなおかつ生殖を否定するバージニティがいかに背徳的であるかは想像できる。あるいは、それは矛盾した概念であり、そのようなバージニティが成立することは不可能だと言われるかもしれない。だが、それはたしかに木下知子の作品群に(作品群が作り出す結界の内部に)存在する。そしてそれを可能にしたのは、徹底して既存の表現スタイル、技法、様態を踏襲し、従来の芸術を偽装する木下の表現の禁欲性である。誕生=出産・繁殖を否定するバージニティは、創作のレベルでもあらわれる。彼女はいままでにない新しい世界観を表出するために、いまある可視的な形象だけを用いているのだ。もはや男根は男性の象徴でも女性の性的欲望の対象でもない。それは世界の連続性、永遠に続くぼくたちの世界という幻想を否定した上で、この現象界に自立しようという『独身者』の形象なのである。
 木下は、彼女よりも年上の世代がどうしても越えることができなかった性の呪縛を、鮮やかに振り切っている。そして性の呪縛とは他ならぬ神=造物主が仕掛けたものなのだ。産みなさい、増やしなさい、繁殖しなさい、と本能は命令する。木下のバージニティは、そうした自然と真っ向から戦っているのである。DNAのプログラムから自らの意志を奪環するために。
 神を殺し、その衣装を着たものは誰なのだろう? はたして『独身者』の前に「花嫁」は現れるのだろうか? ぼくは一刻も早く、それが知りたい。



Ayame−鈴木大治


contact:ayame@fuji.ne.jp

▲back