ART CRITIC / CRITICAL ART #25 
鳥澤由理亜 個展
1996年4月−5月 静岡 ういんな

 鳥澤由理亜は二十歳を過ぎたばかり。この春、学校を卒業した。静岡市のCafeういんなで行われた「TRANSCODE」は、彼女の初めての個展である。

 展示された作品は、会場の三方の壁面を横断する、三十六枚のパネルピースである。パネル群はフレームの両脇を他のピースの側面と密着させているので、三十六枚の図像が一本の長い鎖を形成している。鎖は、隣あう二点の図像が対になった部分と、一点の単独の図像がイメージの連続性を分断するように配置された部分で構成されている。最初のピース上に提示された「TRANSCODE」というタイトルが、最後のピースで再びクレジットされ、鎖は円環する。

 これは美術だろうか。正しく美術であるとするならば、硬直した先行世代の作家は、さぞかし腹立たしい思いを抱くことであろう。美術展に便器が展示された時のように。美術のパラダイムを変更しかねない衝撃、というと大袈裟になるが、なにか新しいことが始まる予兆のようなものを、この個展に感じた。

 「TRANSCODE」のパネルピースの大半は、鳥澤によって撮影された人物像だ。遠目には写真によるインスタレーションのように見える。けれどもそれは写真ではなく、写真をベースとした印刷物である。撮影された映像はすべてコンピューターによって画像処理を施され、プリンターから出力されたものだ。この過程でオリジナル画像の「手触り」が消され、生理的な情感が排除される。

 彼女が撮影した「写真」の他に、色面、宗教画、科学写真のような光紋、新聞の紙面など、他の印刷物からスキャニングされた雑多な画像も、同様にプリントアウトされて、とり混ぜられている。これらの画像と鳥澤自身が撮影した映像の間には、質感の差異がない。プリントアウトされた鳥澤の写真から「オリジナル性」は失われている。オリジナルとコピーの境界線が消滅しているのである。写真というオリジナルな作品が、ここではマテリアルでしかない。美術の基本的な約束事、「唯一の創作物」が存在していないのである。

 鳥澤の撮影物からもオリジナルの不確かさが問いかけられる。鳥澤は短髪と長髪の二人の若い男を撮影しているが、おそらく彼らは同一人物である。長髪はウィグだと思われるが、これが擬装されたキャラクターかどうか。どちらのキャラクターがオリジナルなのか、判別不可能。モデルには、女性的であるとかトランスベスタイトのような印象はない。といって男性的でもない。身体の外見、容器の差異が作り出すジェンダーが機能していないのである。なぜなのだろうか。

 「TRANSCODE」の鎖の上で、同じ図像が何度か反復される。それはポジ/ネガが反転した画像であったり、解像度をおとして劣化したコピー像であったりする。したがって、図像は反復はされるが、しかし微妙な差異を伴っている。不完全な転写。消尽されるオリジナル。鎖。これらが暗示しているものはHIVである。

 さて、これらの図像は新奇なものではない。引用された印刷物はもちろんだが、鳥澤が撮影した写真にしても、現代のファション雑誌を通じて大量に流通している、むしろ凡庸といえるイメージである。重要なのは個々の図像の内容や作品性ではない。個別の図像のイメージには、ほとんど何の意味もないのだ。図像から図像への移動、イメージからイメージへと転位するプロセスそのものに、快楽を誘発する仕掛けがある。それは先鋭的なクラブDJやネットサーファーたちが切り開いている地平である。モノとモノをつなぐ、関係させる、リンクさせることが、即ち創造となる。

 鳥澤が提示しているのは、図像と図像の結合から生ずる不可視のイメージだ。鑑賞者は自身の意識内に発生する「印象」を見ている。いや、作者によって「見せられている」と言ったほうがいいだろう。鳥澤の創作物によって意識操作が行われる。しかし鑑賞者はそのことに気づかない。知覚しない。

 荒涼としたクールな映像群の連結から立ちのぼるイメージは、デッドテックな廃墟の中で、来るべき何者かを正面から受け止める少年少女たちの硬質な物語である。オリジナルは確かにある。しかしここにはない。オリジナル(絶対者)を追放することで秩序は崩壊した。オリジナルを追放することで、オリジナルの創造者も放逐された。だが、そこにこそ、エゴの消失点から集合的無意識の神話世界が始まるという、あのポップアートの秘儀が隠されている。

 この若い素人のデビューは、創作の軽さに反比例して、重い意味を持っている。作家と呼ばれる人々は、ここに隠された「前兆」を理解しただろうか。


Ayame−鈴木大治

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