ART CRITIC / CRITICAL ART #52 

劇団RIN第十七回公演  「異聞・本能寺の変」

 「劇団」とは、その構成員によって演劇の上演を行うという目的性を、構成員自身に共有されている集団を指す。
 わざわざこのような自明の事から書き始めたのには理由がある。静岡県が主催する1996年の「静岡ライブシアター '96」に参加した団体の名称を見て気づいたのだが、過去十年に結成された演劇集団のほとんどが、「劇団」を名のっていないのだ。

 私は私自身の空白の十年を振り返らなければならなかった。

 六十年代以降、アングラ演劇と呼ばれた一群の演劇の革新者たちが提唱する演劇論は、必ず集団論を含んでいた。作品の強度は同時に、それを上演する集団の共同体としての強度でもあった。あるいは作家・演出家と、その理念を体現する俳優との接続の強さと言ってもいい。早稲田小劇場の白石加代子、状況劇場の李礼仙、天井桟敷にあっては主宰者である寺山修司自身が劇団の演劇論の具現者だった。しかし、制度化した新劇へのアンチとして登場した六十年代演劇は、表現として成熟すればするほど、新たな制度を作りだしてしまった。才能ある演劇人を頂点としたピラミッド型の共同体へと収斂し、次第にセクト化していったのである。つまり反新劇演劇は最初から矛盾を抱えていた。何故、劇団なのか? 何故、共同体なのか? 意識した瞬間から、それは制度となってしまう。国家解体を標榜するラジカルな劇団のことごとくが自ら瓦解してゆくのは、劇団自体が小国家であることの当然の帰結だったのである。

 八十年代後期の演劇状況は、劇団という集団を、特殊な共同体であることから離脱させた。反新劇演劇が内包する矛盾を回避するため、演劇創作組織としての「劇団」を、共同体からネットワークへと言い換えたのである。劇団の持つ部族社会・村落共同体的な閉鎖性はうすれ、プロデュース公演や劇団間の客演が盛んになった。その一方で、集団に密度の高い人間関係を求める異能者は、こぞって宗教団体へと走った。
「オウム以降、もはや演劇など成立しない」というのは、あるアングラ系俳優の言葉だが、これは反新劇演劇のアナーキー性に過剰な幻想をいだく者の典型的な見解だ。

 こうした演劇状況の再編成は、演劇史上どのように年譜すべきか。私見ではあるが、明確に特定することができる。反新劇演劇の変質は、1983年の寺山修司の死去とそれに伴う天井桟敷の解散に始まり、1987年の状況劇場の解散で完了した。まず間違いない。

 いま、「劇団」を標榜する集団の位相は二つしかない。一つは、反新劇演劇以前の、即ち「新劇」の形態を踏襲している。もうひとつは、その集団は演劇表現についてなんの掘り下げもしないバカであるということ。しかし、だからといって、「劇団」を称さぬ集団が現在の演劇状況と真摯に取り組んでいるわけではないのも事実だ。演劇という表現を選択した根拠の希薄さをあからさまに露呈する素人バカ集団はあまりにも多い。

 劇団RINは1988年に結成された集団だが、理念的には近代演劇の域を出るものではない。それ故、「劇団」という共同体の枠組みがいまだに保持されている。即ち、−劇団RINは創作演劇の上演を目的とした集団である−、このような単純にして明解な図式が充分に有効なのだ。演劇はエンターティメントとしてとらえられ、古典的劇構造は牧歌的ですらある。
 だがそれにしても、この劇団が時代劇に淫している由縁は何なのだろう。時代の風俗衣装、小道具、言い回し、これらの魅力だろうか。たしかに和服姿にマゲカツラとくれば、それだけで気分は非日常である。演ずる側にしても華やかな時代劇の衣装を着れば、たちまち役柄に没入できる。しかしそれだけではあるまい。おそらく劇団RINが目指しているのは、現代的な、時代に即した大衆演劇なのだろう。表現の深みには欠けるにしても、見世物娯楽に徹する潔さは評価すべきなのかもしれない。

 『異聞・本能寺の変』のストーリーは、半村良風伝奇物語である。時間を移動できる能力を持った現代女性が、戦国時代へと時間跳躍し、荒唐無稽な日本異史を追ってゆくという、SFの要素が盛り込まれた時代劇だ。明智光秀や織田信長を中心に、様々な戦国武将が交錯する。明智は異能力を持った一族の一人で、自らの性別を変化させることができる。このあたりは、ル・グインのSF小説や萩尾望都の漫画を思わせる。
 俳優たちの発声・発音などの最低限の基礎がクリアーできているのは、それなりの稽古を積んだ成果だろう。だが俳優がそれぞれ個性的であるとは言い難い。個々の俳優が「役作り」という孤独な作業の中から創出したオリジナリティは、全く感じられない。均質な演技、均質な台詞回し。すべての俳優は台本上の物語を再現する「役」でしかなく、閉塞した劇世界を破砕するような異質な存在は、ここでは排除されているのである。
 これはテキストの再現を優先させる近代演劇では、むしろ正当な作り方だ。近代演劇の観客が見ているのは、実際には、俳優の背後に存在するテキスト=物語だからだ。

 ところで、ここで問題とされるのは、近代演劇における舞台のクオリティはテキストの文学的完成度の高さに正しく比例するということである。劇団RINのテキストは文学としても自立することが可能だろうか。
 『異聞・本能寺の変』の世界像はまったくのフィクショナルなものだが、その物語世界独自の秩序だった整合性を持っている。それを支えているのはディティールへの過剰なこだわりである。会場で渡されたパンフレットには、劇中で語られる語句の解説があった。このような補足説明を必要とするほど、この芝居の設定はあまりに煩雑なのである。もちろん用語集は物語を了解する助けにはなっても、舞台に深みを与えるものではない。それ以前に、ディティールの積み重ねは、果たしてテキストの文学性に、劇世界のリアリティに何らかの貢献をするものか、そのこと自体が疑問だ。
 同様な疑問が演出にも言える。例えば殺陣の場面では、太刀と太刀とが交わる金属音や、人が斬られるドシュッという(テレビや映画の時代劇で使われるような)効果音がサンプラーで音出しされている。こうした演出は演劇のリアリティとはまったく無縁である。たしかに劇団RINが熱演する殺陣を見て、迫力がある、リアルだ、と感じる。ところが私は本物の殺陣、サムライが斬り合う場面など見たことがない。私が比較参照しているのは、テレビ・映画で見た一シーンなのである。具体的なイメージが、テレビ・映画からの再利用ではどうにもおそまつだ。

 明智光秀が実は女性であったとしても、歴史にその名を刻んだ人物たちが、他の星々から地球へやってきた来訪者の末裔であろうと、私たちは驚きはしない。私たちは現実にトランスジェンダーの時代に生き、エイズで死んでゆく友人たちをみとり、そしてサリンと震災をくぐり抜けて来たのだ。
 劇的想像力は、観客の日常性をのり越える感動的な表現はどこに存在するのか。文字で書かれた「劇的な物語」を演じることが「劇的」なのではない。物語がテキストの上から、舞台に立ち上げられてゆく過程で発生する、予期せぬ物語こそが「劇的」なのである。それには創作現場、表現の場で、表現者同士の熾烈な衝突と向かい合わなければならない。「劇的修羅」から逃走せずに踏みとどまることができるのは、強靱な共同体である。劇団RINは鍋田穂津美という、力のある魅力的な女優を擁している。この演劇集団=共同体が、物語に従属する近代演劇性と縁を切り、鍋田を主軸とした自前の集団論を獲得すれば、その成果は計り知れない。このままでは惜しい。

追記 何故、私たちは劇の冒頭で、ポルノらしき映像を舞台上のモニターで見せられなければならなかったのか。合点がゆかない。


劇団RIN公演『異聞・本能寺の変』は、静岡県の助成を受けて
1996年9月7・8日、静岡・サールナートホールで上演された。
作・演出、中村和光。前売り1300円、当日1500円。