ART CRITIC / CRITICAL ART #57 

伽藍博物堂公演  「世紀末より愛をこめてV」


 むなしさもやりきれなさも、とうに通り越している。いま、ここで、この演劇が上演されることに何の意味があるのか。何故、演劇なのか。彼ら伽藍博物堂が演劇という表現を選び取ったことの根拠は何なのか。私にはまったく判らない。舞台からは何も伝わってこないのだ。まさしくガランドウである。何を演ずるのか、何のために演ずるのか。自らへの基本的な問いかけが伽藍博物堂には欠けているのではないだろうか。

 命を賭しても立ち会いたい演劇は、私たちから遙かに遠ざかってしまった。その責任の半分は観客にある、と私は思っていた。メディア主導の情報操作によって、容易に消費されるジャンク演劇が氾濫するのも、結局はそれを求める観客がいるからだと。そのため、私は舞台上の実作者たちの怠惰に目をつぶってきた。責められるべきは我々観客なのだ。実際この十年というもの、私はほとんど演劇というものを観てこなかった。だが、世界はいまだに終わらない。演劇という事象も続くだろう。ならば今からでも遅くはない。戦線に復帰しなければ。

 私は現前する表現の「源流」を言語化することを、批評の主軸にしている。表現されえなかったものまでを読みとろうとしているのだ。表現には必ず表現者の精神が反映される。表出された象徴が難解であっても、意識下の想念が紆余曲折を経て原型をとどめぬまでに変形していても、作者は不可避に痕跡を残している。作者の刻印を慎重に辿ってゆけば、見えなかったものが見えてくる。
 観客は舞台上の表現を受け取ると同時に、内在する劇性=イメージを引き継ぐ。誤読であれ、妄想であれ、観客が作者の思惑にはない表象に触発されることはままある。アングラ第一世代の唐十郎らは、劇世界に過剰な象徴性を投入することで観客の誤読を意図的に誘発した。等身大をはるかに越えた、非日常空間を幻視させたのである。
 だが、存在しないもの、潜在しないものまでを見ることはできない。作者の内部世界に存在しない事象が、作品に表出されることはあり得ない。エノク語を知らずして、エノク語の台本を書くことはできないのだ。記号・情報量が多ければいいという問題ではない。要は作者は常に等身大の地点から創作を開始するということだ。私の批評の目的は、現象する作品を遡上してゆき、創作者の個人的・集団的意志に対峙することである。

 SF仕立てのこの物語は、2、300年後の未来が舞台。星間貨物宇宙船の船長ジョンと、密航者ポールを中心に展開する「珍道中(チラシのコピーを引用)」である。擬人格化したコンピューター・プログラムや宇宙海賊とおぼしきハッカーたちが登場し、スケッチコメディ風な構造で、とりたてて劇的な事件が起こるわけでもない。ヤオイなストーリーはともかくとして、ジョンとポールとくれば、すぐさまビートルズを連想するのは私ひとりだけではあるまい。おそらくビートルズのメタファーがあるのだろうと予期して観劇に臨んだが、その気配は微塵もない。私の一人合点だったかと思えば、ラストシーンで突然『レット・イット・ビー』が流れる。劇中で『レット・イット・ビー』を使いたいがための登場人物名か? 「どうにかなるさ(レット・イット・ビー)」がこの劇団の創作態度では洒落にもならない。
 これが今日の演劇の典型なのか。伽藍博物堂の舞台は、神聖とも崇高とも縁がない。ここには卑しささえも存在しない。六十年代演劇が「情念」と称した汚辱性は排除され、滅菌された空間が現代の市民社会にはびこる神経症的な清潔志向と接続する。よもやそれが宇宙船内の衛生的空間の比喩だなどとは言うまい。
 ひと昔まえの小劇場演劇の集団には、必ず一人か二人は「壊れた」演技をする俳優がいたものだ。稚拙な演技や異常な演技が、予定調和を内破した。自壊をものともせぬ卑しさは、観客に名状しがたいエネルギーを確信させ、ある種の感動を覚えたものだが、伽藍博物堂にはそうしたアウラがない。劇世界は決して破綻しないのだ。俳優は与えられた役を器用に演じてみせる。たしかに「小上手く」、達者だが、それはテレビの画面で見慣れた演技以上のものではない。お茶の間で日常記号化された演技、深みのない意味内容の羅列。ただそれだけ。この凡庸さはどうにも救いがたい。八十年代以降の小劇場演劇の無害な部分ばかりをそろえたようだ。寒々しく、血の通わない演劇。決定的に貧しいのである。これが低予算演劇だという(実際にそうなのかは判らないが)制作的な問題ではなく、創造性の貧困が舞台を空疎にしている。

 高らかに『レット・イット・ビー』が鳴り響くその中、それまで舞台後方に降りていた照明のバトンが、俳優たちの背後をゆっくりと上がってゆく。逆光線と登場人物のシルエット。私は逆光を宇宙船のライトに見立て、スピルバーグの「未知との遭遇」を思い出していた。いかにも紋切り型の「お約束」のカタルシス。−終幕だな−。案の定、劇は終わる。

退屈でしたか?
−いいえ、退屈ですらありません−。


 観ることで勝負し、演劇に参加しようとする観客、劇的な瞬間に立ち会おうと切実に欲望する観客に対し、これははなはだ不誠実な舞台である。それでも私たちはこのような表現に耐えなければならないのだろうか。


伽藍博物堂公演『世紀末より愛をこめてV』は、静岡県の助成を受けて
1996年9月28・29日、静岡・サールナートホールで上演された。
作・演出、佐藤剛史。前売り1500円、当日1700円。


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