ART CRITIC / CRITICAL ART #59 

劇団炎公演  「トントントンカラリンの漂流記(ロボット999)」

 私が初めて劇団炎の舞台を観たのは、昔々、もう二十年近くも前のことである。演目は、アガサ・クリスティー原作の『そして誰もいなくなった』という翻訳劇だった。
当時、私は近代演劇と真っ向から対立する姿勢を明確に表明していたので、会場で手渡されたアンケートには、このような劇団は存在する価値はない、とずいぶん乱暴なことを書いたと記憶している。以来私は劇団炎を、娯楽性の強い新劇系作品を上演する劇団というように理解していた。

 今回、劇団炎の『トントントンカラリンの漂流記』を観て、私は呆然としてしまった。舞台表現を成立させるための「形式」が、ガタガタに壊れているのだ。劇世界を構成する不可視の要素、テキスト上のドラマと、それを舞台上で視覚化するための演技形式が絶望的に乖離してしまっているのである。その結果、実に奇怪きわまりない、異様な劇世界が出現していた。

 劇団炎の演技術は、ひと昔もふた昔も前の、新劇の翻訳劇を上演する際の演技スタイルを手本としていると推察される。実例をあげれば、その典型は、俳優が「わたしは・・・・」という台詞を発する際、手のひらを自分の服の上に置く所作である。これは明白な「演技」で、人工的に作られた紋切り型の動作なのである。私は決してこのような演技術を否定するものではない。むしろ紋切り型を「技芸」と考えている。なぜならば紋切り型は、演技者が表現(演技)形式を身につけようとする営為の中からあらわれてくるものだからだ。あるがままの身体とあるがままの話法が放り出された小劇場風演劇よりも、たとえ稚拙に見えようとも、そこに訓練の痕跡はたしかに見ることができる。

 近代演劇における俳優の演技は、基本的にはコンテンツを伝える「形式」である。自然な演技とは、俳優の所作(演技)が指示する意味内容が、観客に正確に伝達される演技なのである。俳優の肉体訓練も発声訓練も、形式を統一するために行われ、画一的な演技は技術として劇団内で継承される。つまり舞台上の自然な身体、自然な演技は、不自然な訓練の結果として獲得されるのである。

 しかし、この『トントントンカラリンの漂流記』の致命的な欠陥は、テキストに劇団炎の演技術に対応するコンテンツが存在しないことだ。

 近代演劇はテキストの持つ主題の強度に依存していた。それは文学性の高さと言い換えてもいい。俳優の役作りは、あくまでもテキストに内在する意味性を引き出すものであって、テキストにない要素を付与するものではなかった。反新劇演劇はそれを逆転させた。俳優の演技は時にはテキスト自体を破壊し、特殊俳優の特権的な身体性がテキストにない意味内容を発生させ、劇場空間でのみ現出する演劇性を再生したのだった。すなわち反新劇演劇においてはテキストは二の次であり、あえて文学性を犠牲にすることで、活力に溢れる演劇性を獲得したのである。

 劇団炎の演技術が近代演劇の側に立つものである以上、テキストの質が問われなければならない。『トントントンカラリンの漂流記』というテキストの主題性、思想性、文学性は、どのように読み込むことができるだろうか。

 物語は近未来の漂流記、難破して無人島に流れ着いた資産家の坊ちゃんの冒険譚である。坊ちゃんと一緒に難破した執事(家庭教師?)と使用人。彼らとの確執、和解、そして二人の死。孤島での生活。幻覚の侵入。ティンカーベルや海賊が現れる。漂着した船の積み荷には、NINTENDOのファミリーコンピューターがあり、少年はそれを組み立て、インターネットに接続(???)。硫黄島に駐留している米軍艦隊が少年の救出に向かうところでハッピーエンド。作劇法は、明らかに小劇場演劇以降のものである。

 この具体性は何なのか。何故、NINTENDOなのか。積み荷の中から発見されるヘアーヌード写真集は何を意味するのか。タイトルの「トントントンカラリ」とは何の暗喩だろう。「トカトントン」なら太宰治だが、どうも「トントントンカラリ」は胡散くさい。

 残念ながら、この芝居の台本は無意味な記号群である。ナンセンスな悪い冗談でしかない。テキストには現代(1996年)の風俗におもねるような言葉が氾濫している。より率直に言えば、流行や若者に媚びへつらう姿勢があからさまに見えるのだ。近代演劇の形式が接続できるポイントは、ただの一点も存在しない。

 私は最初、こうした内容と形式の分離は、劇団炎が作為的に行っているものだと考えていた。このちぐはぐな並列性は、たしかに現代を象徴している。ばかばかしい台本を翻訳物の新劇的な身振りで生真面目に演ずればするほど、演技は空転し、形式=新劇的所作の不自然さ・人工性ばかりがが強調され、それと同時に台本の空疎さもきわだってくる。自己パロディ化してゆくこの演劇に、私は自虐的な批評性を読んでいたのである。

 ところが劇が進むにつれ、劇団炎にそのような意図があるとはとうてい思えなくなってきた。実際には劇団炎は、形式の徹底という「俳優修業」に対しても不誠実だったからだ。例えば劇中歌である。悲惨としか言いようがない。曲のクオリティは問わないにしても、稚拙な歌唱はどうにかしてもらいたいものだ。基礎的な訓練がなされていない証左である。これでは演技にしても、どの程度の修練があったのか、おさとが知れると言うものだ。

 公演チラシには、次のような劇団炎の宣言文が記されているので、全文を引用する。

 お芝居愛して37年、人を愛して37年。そんな劇団炎がおくるオリジナル作品『トントントンカラリンの漂流記』。こどもには生きるよろこび、尊さを、親ごさんには勇気を。特に子供には強くたくましく生きてほしい。そんな気持ちが舞台を舞い、走り回れたらと・・・。劇団炎は21世紀を目指します。

 この言葉に偽りがないとしても、観客が出会うのは、創作者たちの心情ではなく、現前する舞台空間であることは自明だ。劇団が歴史を持ち、その歴史に誇りを持つのならば、創作の歴史の中で形成された演劇論・演技論があってしかるべきなのだ。身勝手な自己回復のために、昨日今日、演劇と自称する茶番を始めたような輩とは、同じアマチュア劇団であっても明らかに一線を画すのだ、という表現の水準をみせてもらわなければ話にならない。理念なき表現が無批判に展開されてゆくのであれば、劇団の歴史性そのものが水泡に帰すであろう。

 形式と内容をいかに連結してゆくか。この古くて新しい問題が、これほどはっきりと、しかも醜悪に露呈されている舞台を、私は初めて観た。


劇団炎公演「トントントンカラリンの漂流記(ロボット999)」は、
静岡県の助成を受けて、
1996年10月5日
、静岡・サールナートホールで上演された。
作・演出、山本芳秀。前売り1000円、当日1500円。

追記 1997年の年明け早々、セガとバンダイの合併が電撃的に発表された。これによってNINTENDOの戦略が一歩後退するのは間違いない。「トントントンカラリンの漂流記」の世界観は、わずか半年で崩壊した。だから風俗ネタなんてもんは、カンの悪いオジさんたちが手を出したりしないほうがいいんだよ。プリクラの機械が梱包されてたほうがまだよかったかな。もうじき衛星回線とつながるようだし。あっ、そうか、ファミリーコンピューターが骨董品だったってことで逃げられるのか \(^_^)。

追追記 やられた! セガ/バンダイの合弁、白紙撤回 (;_;)。迂闊だった、上記のような事を書くんじゃなかった。おまけにNINTENDO64は値下げによって売り上げが急増。ゲーム業界の覇権の行く末は混沌としている。補足即ち蛇足と、自らを戒めます。流行に色目をつかうなかれ。
1997年5月