ART CRITIC / CRITICAL ART #60 

清水演劇研究会公演  「危険なパーティ」
 セックスの話ばかりしている演劇。この劇団の構成員(研究会員)たちは、まっとうな市民としての日常をどのようにおくっているのかと、首をかしげたくなる。この国の将来を憂い、しばし途方に暮れた。

 ついに出たか。というより以前から存在していたのだから、私が知らなかっただけのことだが。これこそ典型的な近代演劇である。
紋切り型の演技術、いかにも芝居がかった台詞術、まさに凡庸を絵に描いたような・・・・。
 自然な演技とは、これが芝居であることを観客に疑わせぬような演技のことである。俳優の演技が、すべて了解可能な約束事であればあるほど、観客の意識は不可視の物語へと向かってゆく。目の前に現前する舞台空間という事象の「意味性」は失われ、背後のテキストが浮き上がってくる。
 新劇のありようとしては、これは正しい。話法/しぐさ/身振りはあくまでも物語のコンテンツを支え、観客に明示するための機能であるからだ。
 清水演劇研究会の舞台上の現象(演技、装置、照明、音響)に言及することはなんの意味もない。語られるべきは、このような舞台を創り上げた創作者たちの理念である。ただ、いささか気になるのは主役の男優の奇妙なイントネーションだ。あれは何なのだろう。どこか地方のなまりなのだろうか。もしやこれがブレヒトの言う異化作用! なにしろ演劇を研究していらっしゃる方々だから、ことによると・・・・(笑)。
 台本はジェームス三木によるものだ。私は寡聞にして『危険なパーティ』という作品を知らなかった。この文章の冒頭で私がいきなり絶句したように、きわめて下半身性の強い風俗劇である。差別的な台詞が次々とくりだされ、品位を疑うような場面が多々ある。
 主人公はスランプに陥っている映画監督。浜松の料亭の息子という設定のこの監督は、即座に木下恵介を連想させる。監督の妻は女優である。少々盛りを過ぎた女優は、週刊誌ではヌマタという若い歌手との噂を報じられている。ヌマタが沖田浩之をもじっているならば、女優は山本陽子である。これが私の下衆の勘ぐりというやつだったとしても、確かに台本はこうした連想を誘引しようとしている。だが、これはいったい何のための仕掛けなのだろうか。ある特定のモデルを示唆することは、この物語の構造にとって何の意味も持たない。どうにも不可解な設定だ。
 監督は以前、南の島で映画のロケを行い、島の酋長(過激な表現!)と懇意になる。酋長は、彼の若い妻に監督の夜の接待を命じ、監督はこのもてなしを充分に堪能する。その酋長が来日し、監督を訪問することになり、さあ、あの時の返礼をしなければならない、ついては妻を酋長の夜伽に、・・・・駄目だ駄目だ、それはできない相談、と愚かなてんやわんやが繰り広げられるわけである。一計を案じた監督は、友人の脚本家を通じてアングラ劇団の若い女優に渡りをつけ、彼女を妻の代役に仕立て上げる。いわく、アングラ劇団はフリーセックス集団だから、その手のことは気にしないだろう。ちょいとまとまった小遣いでも与えてやれば、どうにでもなる。
 ・・・・驚いたね、どうも。これじゃホテトルだよ。まさかこの「研究会」、本気じゃないでしょうね。アングラ劇団がフリーセックス集団だなんてあなた、このセックスレスの時代に何を大ボケかましているんですか。
 いやいや、ここはひとつクールに考察してみよう。興味深いことだが、私がこのところ観てきた静岡の若手劇団の舞台には、セックスに関する言辞はまったくと言っていいほどなかった。しかしこれは劇世界から「セクシュアリティ」が欠落しているということではない。いずれの舞台も注意深く読み込めば、潜在的にはセンジュアリティ・セクシュアリティを内包している。だが、それらは従来の「性」の枠組みでは推し量ることができないのだ。
 男性/女性という役割分担が解体され、性の境界線は消滅している。家父長的なジェンダーはもはや何の意味ももたず、ヘテロセクシュアルからホモセクシュアル、あるいはバイセクシュアルへと、交換可能な、ゆらぐ性のありようが暗示されている。これは清水演劇研究会が抱える性観念とはまったく異質なものだ。
 清水演劇研究会の劇世界では、男も女も近代的な性的役割を演じているにすぎない。性は倫理性によって規定されているのである。性の多様性はモラリティによって圧殺される。島の酋長が一夫多妻の共同体に属し、監督が一夫一妻を了解項とする共同体で生活しているという文化的差異など、はなから無視されているのである。それゆえ主人公の監督はセックスをめぐってあたふたする。酋長の文化習俗を無条件に受け入れることで、監督は見かけ上は自らのアイデンティティを放棄してしまう。実際には監督は、ニセの妻を仕立てていることからも明らかなように、酋長の性習俗を理解、容認したわけではない。共有したふり。異文化に対するなんという侮蔑だろうか。いや、それは単に異文化間の問題ではない。彼の規範が我の規範にはなりえない(こともある)という、コミュニケーションの厳しい現実から目をそむけているのである。おそらくこれが清水演劇研究会の性格だろう。このような傾向を持つ共同体では、弱者が抑圧される。権力的強者は己の規範を、常に弱者に無理強いする。異質な存在が弱者であれば、それは必ず粛清され排除されるのである。レイプや侵略が発生する要因が、全く自覚されないままに、清水演劇研究会の体質には潜んでいるのだ。
 新劇は他者の差異に対しては不寛容な制度である。反新劇演劇(フリーセックス集団)は、あえて共同体の内部に異形、他者を取り込んでゆくことで、カオスを排斥する近代を越えていこうとした。だがそれをラジカルに実践していった集団は、いずれも多様性のカオスが引き起こす内圧に耐えきれずに瓦解していった。八〇年代の物語である。その間、そして現在まで、新劇は何をしていたのだろうか。清水演劇研究会はいったい何を研究していたのか。
 ジェームス三木の奇怪な台本は、図らずもこの劇団の偏向性を逆照射している。

 私は人間というものはレイプをし、侵略をし、人殺しをするものだと思っている。それはモラリティで回避できるものではない。清水演劇研究会の演劇では、断じて世界の崩壊を押しとどめることはできまい。


清水演劇研究会公演『危険なパーティ』静岡県の助成を受けて
1996年10月10日、清水・清水市民文化会館中ホールで上演された。
    作・ジェームス三木、演出・吉岡利根雄。前売り・当日1000円。

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