ART CRITIC / CRITICAL ART #061 

劇団火の鳥公演  「この子たちの夏」


驚くべき水準に達した舞台である。静岡の劇団の力量をあなどっていた。衝撃的な成果だ。
真っ向からのメッセージ。渾身の一撃。胸をうつ。素晴らしい。

六脚の椅子以外には何もない舞台に、六人の女優が登場し、ヒロシマ・ナガサキの被爆者たちがつづったテキストを語る。俳優たちは決して情動に流されることなく、淡々と「惨劇」を語る。演出も実に巧みだ。時に俳優たちは声をそろえて発話し、あるいは文節を区切って、あるいは俳優から俳優へ文脈をリレーで手渡してゆくように語り、あるいは一人の俳優が一本のテキストを語り尽くし、様々な話法が提示される。
俳優は椅子に座り、立ち上がり、帽子をかぶり、帽子を脱ぎ、確固たる意味を担って舞台上を動き回り、位置関係を変更してゆく。それらは見事に計算され、一分の隙もない。
時折ホリゾントに投影されるテキストも効果的。

俳優たちが演じているの何なのだろうか。原爆の死者たちだろうか。歴史に埋もれた無名の人々だろうか。そうではないだろう。
彼女たち俳優は、「役」を演じてはいない。では俳優は自分自身を演じているのか。
それも否。舞台上で語られているのは彼女たちの言葉ではない。ひとつとして俳優自身の言葉であるようには感じられない。俳優の感情が混入することなく、テキストの「意味」だけが正確に伝達される。
俳優の発する台詞があたかも俳優自身の言葉であるかのように錯覚させることが、近代演劇の作法でもあった。それがリアリティなのだと。だが近代(日本)演劇の鉄則であった「役柄になりきる」演技術はここにはない。俳優の肉体がテキストを咀嚼し、自らの言葉として獲得する作業を切り捨てている。
六人の女優が演じているのは朗読機械だ。この倒錯。俳優の肉体とテキストの間に広がる亀裂に、不可視の劇空間が存在する。

からりと晴れ上がった夏休みの一日。蝉の声がやかましい。舞台空間のどこにも、原爆のイメージはない。原爆の凄惨は、私たちの頭の中で生成されるのである。とほうもなくリアルに。

テキストの持つ意味内容(コンテンツ)とそれを正確に伝えることのできる形式(フォーム)。この二つが完璧に結合している。素晴らしい。

ひとつだけ重大な疑問が残った。「この子たちの夏」の舞台の形式・様式は、本当にこの人たち(劇団火の鳥)が創作したものなのだろうか? 最後まで、そしていまもなお、疑念が晴れない。
よってこの演劇集団に対する所感は保留する。人は所有しているモノによって評価されるべきではない。とはいえ豚が真珠を持っていたとしても、それが真珠であることには変わりはない。
劇団火の鳥公演『この子たちの夏』は、
1996年10月10日、静岡・サールナートホールで上演された。

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