ART CRITIC / CRITICAL ART #62 

劇団気流公演  「みつけたい」

 視聴覚センターで劇団気流の公演を観た。おそらく静大の学生劇団だろう。自動的に「静岡大学」のサークルだと思ってしまうのが困りものだ。十年以上も静岡の演劇から遠ざかっていたものだから、最近の演劇事情がよく呑み込めていない。
 ぼくが演劇を始めた頃は、まだ県立大学はなかった。常葉大学もなかったし、東海大学には映画サークルはあったが、たしか演劇サークルはなかったはずだ。演劇サークルがあるのは「静岡大学」だけで、地味な「演劇研究会(ゲキケンって言うんだよね)」と、あと二、三のサブカル系の団体。「らせん劇場」も演劇サークルとして大学に登録されていたはずだが、今もそうなのだろうか。先日観た「ドリームプロジェクト」も静大の劇団だ。いったいいくつあるんだ? 他の学校はどうなんだろう?

 物語はシンプル。タイトルそのまま。自分探しの物語。学生演劇における不滅のモチーフ。 「失われたアイデンティティを求めて」、だ。

 探偵事務所。女探偵。ウォシャウスキーやジーナ・ローランズのグロリアのようなハードボイルド姉ちゃん(年齢制限、甘いか?)ではない。もっさりとした興信所のオバサン風。 やってくる依頼人の男もうすらぼんやりとしている。
 実はこの朦朧さかげんが学生演劇の特徴なのだとぼくは思っている。明解な指向性を持った学生演劇があったら不愉快だ。モラトリアム(死語? ぼくも使っていてなんとなく恥ずかしいのだが・・・)こそが学生の身上。オーラを見せられておびやかされたのではたまらない。

 依頼人は行方不明の兄を捜してくれという。よし、オチは判ったぞ、捜していたのは結局、自分自身だったんだという『青い鳥』の変奏曲。ズバリ的中とは言わぬが、お約束通りであった。そこがいいんだよ、そこがね。新しい演劇を創り出しているわけではないが、いまある物語のフレームが、いまでも有効かどうかはたしかに検証されているのだ。

 女探偵は失踪した男を捜す。鍵は「小箱」である。

 平行する物語がある。箱を作る男。舞台上に様々な箱がある。開かない小箱の謎。開く小箱はオルゴールだ。箱はもちろん自閉した精神の暗喩である。

 平行する物語がある。何組かの兄弟姉妹が登場する。兄弟の関係は、分離、分断を象徴している。誰もがなんらかの欠落をかかえ、なにかを探している。

 開かぬ箱が開いた時、散乱していた物語がひとつに収束するという「ドラマツルギー」の定番を予想。ズバリ的中とは言わぬが、お約束通りであった。そこがいいんだよ、そこがね。 失われた記憶、失われた自己、分断された自我の合一が成就し、世界の完全なる統一が実現する(なんだか自己啓発セミナーのお題目みたいだ)。

 潜在的な仕掛けはカタルシスを生じさせるようになってはいるのだが、それはやってはこない。劇的虚構が成立していないから。つまりこの舞台にはリアリティーが全くない。だがそのことが逆説的にリアルなのだ。なんにもないよなー、こいつら。そう思った。だから「みつけたい」ってことなんだろうけど。ぼくも彼らぐらいの年齢の頃はそうだったのだろうか? あ、ぼくはいまだになんにもないか・・・。

 意図してか、無意識にか、プロットやディティールのすべてが自分探しのメタファーである。フロイト先生におでましいただくまでもない。若者にありがちな作劇で、ことごとく凡庸。でもまっとうに学生やってればこうなる。これで正しい。

 まじめな芝居だった。かたくるしいという意味ではなくてね。好感度、高い。
1996年10月6日

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