ART CRITIC / CRITICAL ART #65 

劇団静芸公演  「思い出のブライトンビーチ」
 髪の毛を茶色や栗色に染めて欧米人に扮する演劇を、「赤毛物」と呼んだ。今でもそのような言い方をするのか判らないが、劇団静芸の舞台「思い出のブライトンビーチ」はその典型である。
 俳優の基礎的な訓練はよく行われている。ここでいう訓練とは、新劇的演技術を成立させるための訓練である。俳優の演技は台本のコンテンツを観客へ伝達する「形式」である。形式は「記号」と言い換えてもいい。例えば、紋切り型の所作。手のひらを上に向けて両手を広げる、くいっと肩をすくめる。この演技には「やれやれ」という嘆息が含まれ、同時に、この動作をする者は欧米人でおそらくは白人であることを指定する記号なのである。当然この舞台には異形性や新奇性は存在しない。劇世界を破壊してしまうような特殊な演技もない。演出、演技、舞台装置、照明、音楽、総てが平準化され、これぞ新劇の王道(皮肉ではなく)だ。
 もはやシェークスピアやチェホフ、あるいはブレヒトを上演するだけで「新劇的」と呼ばれる時代ではない。あまたの反新劇劇団が古典の再解釈と取り組み、ポストモダンな舞台を創造している。ところが欧米の現代劇を上演すると、そこにいきなり新劇というジャンルが立ち現れてくるのは何故だろうか。このことはまた考えてゆくとしても、アメリカ現代劇の上演が「新劇」の延命に一役買っていることは間違いないだろう。

 時代は第二次世界大戦の少し前、場所はニューヨーク。ポーランドから移民してきたユダヤ人家族の日常。家には親戚二家族が同居している。彼らは失業やらなにやら様々な問題を抱えながらも、家父長制と強固な共同体意識に支えられている。物語は次男が観客に直接語りかけ、状況を解説してゆく形で展開してゆく。アメリカのスケッチコメディでは常套のこの作劇法も、私たちにはいまだに居心地の悪さを感じさせる。
 舞台上には現れないが、海を越えたヨーロッパでは、もう一つの事件が進行している。ユダヤ人家族の親戚の、ポーランドからの脱出劇である。彼の地が戦火に包まれる直前、親戚一家はアメリカへの船に乗ることが出来る。ただでさえ手狭な家に、更にもう一家族が加わることになるのだが、父親は家族が力を合わせればどうにだってなる、と脳天気なところで幕。

 劇団静芸の芝居では、その舞台空間から受ける即物的な印象は、きわめて希薄だ。俳優それぞれが創り出す個性も、実体を持たない記号群である。だが、現前する劇世界が薄いほど、背後のテキスト、そして創作者たちの思想ははっきりと見えてくる。すなわち、この舞台に込められた欲望が、明示されるのである。したがって問われるべきは、演技よりも、その思想であろう。

 何故、家族の物語なのか。家族という制度が解体し、国家という大家族の枠組み自体が再編成されつつある現在、劇団静芸が提示している家族像は、ノスタルジーでしかない。もちろん彼らが古き良き時代の家族像を懐古するのはかまわない。だがそうした家族像は、彼らの理念にふさわしいものなのか。私は、彼らが求める家族観には、「民族主義」の萌芽がみられると考えている(ただし留保したいのは、そうした観念は台本にあらかじめ内在しているため、劇団静芸によって新たに付加されたものではないということである)。
 多民族国家では国家=大家族という図式が成立しにくい。アメリカの家族は村落共同体の構成員ではなく、いまだに原型は「大草原の小さな家」なのである。インディペンデンスを規範とする世界では、暗黙の共同体などありえない。隣人はまず敵として現れ、共同性はあくまでもネゴシエイションによって作られるのである。同様に、多民族国家が国家意識を保持するためには、強烈な観念が必要なのだ。その意味で、二〇世紀という時代は、マルキシズムという観念が、実に上手く機能していた。旧ソビエトにしても、旧ユーゴスラビアにしても、社会主義によって国家=大家族という思想を支えることができた。ここでは共同体は、血の共有(血縁)ではなく、思想の共有によって保証されていたのである。
 多民族をつなぎ止める強力な観念が瓦解した現在、国家崩壊の雛形として家族崩壊が現象するのは自明であろう。
 そこで民族意識は最もお手軽な「家族再生」への道である。旧ユーゴは、共同体がとめどもなく崩壊してゆく事態に対して、最強・最悪のカウンターパンチを与えた。「民族浄化」である。五〇年前の話ではない。現在も進行している状況なのだ。だが、そこには確実に、劇団静芸が演じていた「家族」があるのだ。
 二〇年も前になるが、当時、劇団静芸の演出家が私に「赤旗振って云々」という話を長々とした事がある。確固たる理念を持った劇団ならば、私たちのこの過酷な現実世界をいかにして超克してゆけばいいのか、少なくとも危機に立ち向かう姿勢だけでも見せてもらいたいものである。

 劇団という制度に「家族」を投影しているのではお話にならない。

劇団静芸公演「思い出のブライトンビーチ」は、静岡県の助成を受けて
1996年11月16・17日、静岡・サールナートホールで上演された。
作、ニール・サイモン。演出、伊藤幸夫。前売り1500円、当日1800円。

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