ART CRITIC / CRITICAL ART #66 

らせん劇場公演  「SKIP」

 逢魔が時の濃霧のごとく、茫漠としたスモークがたちこめる舞台空間に、照明の青い光條がくっきりと浮かびあがる。客席へ向かって凸型に突き出た張りだし舞台は、白と黒の市松模様。場末の演芸場に通ずる卑近なイメージ。芝居の方も、ストリップ小屋でショーの合間に演じられる寸劇やコントを連想させる。歌謡ショーもどき、歌舞伎もどき、宝塚もどき、レビューもどき、次々に繰り出される大衆芸能のシミュラクラ。通俗的な身振り、しぐさ、居間のモニターから流れる話法となんら変わらぬ物言い。
 らせん劇場が目指す先は、大衆芸能=軽演劇のモダニズムか? 純粋遊戯として流通する大衆娯楽か?

 らせん劇場の舞台を観るのは随分久しぶりだ。最後に観たのは、駿府公園内に仮設されたテント劇場での公演、いや、長沼の倉庫で行われた公演だったかも知れない。前後の関係がはっきりしないし、芝居そのものもよく覚えていない。まだ昭和だったか? 初めて観たのは七十年代の終わり頃、静岡大学構内で上演された「贋作・熱海殺人事件」だった。あれから既に二十年近い歳月が経過しているとは。
 創立時や初期のらせん劇場を知る者として、彼らとの接点はもはや、主宰者都築はじめとの個人的な関わりだけになってしまったが、現在のらせん劇場を明晰に批評することは、彼我の分岐点を明らかにすることでもある。

 らせん劇場のファンは、「なにがなんだかよく判らない」ところがこの劇団の芝居の魅力だと言うようだが、本当にそうなのだろうか。判らなさをよしとする個人の好みはともかくとして、らせん劇場が「なにがなんだかよく判らない」演劇をやっているという意見には、私はかねがね疑問を持っていた。今回の舞台を観て、「これではたしかに判らない」と思った。だが現象した劇世界がいかに陳腐でとりとめのないものであっても、都築のテキスト自体はきわめて明確な構造を持っていることも確認した。主題は終始一貫し、破綻なく終結している。それは意外なほどまっとうな物語だった。判る/判らないの次元で演劇を論じるのもなんとも愚かしいことだとは思うが、中途半端に舞台を眺め中途半端に判ろうとし、中途で理解を投げ出し「判らないけれども面白い」などと評する観劇者には、はっきりと宣告しなければならない。らせん劇場の芝居は判りやすい。そして続けて次のようにも言わなければならない。「なにがなんだかよく判らない」。
 もちろん矛盾しているが、これには理由がある。テキストのみを吟味すれば都築の劇世界は理解できる。しかしそのためには俳優によって現前する舞台表現を無視しなければならない。当然観客としての視点は失われてしまう。観客がらせん劇場の演劇を判ろうとするならば、観客は観客であることを止めなければならない。観察者として徹底的に主観を排除すること。客観的な観客は、観客ではありえない。

 私は以下のような戦略のもとに、らせん劇場の分析を行う。
 テキスト上にはない、俳優によって追加された意味は一切考慮しない。例えばテキストでは男性の俳優によって演じられるように指定された役を、実際の舞台では女優が演じていたならば、そこには予定外の意味が付与されている。俳優はテキストの言葉を観客へ伝達する。ところが言葉=台詞は俳優の身体や演技によって歪められ、変形されている。台詞回しの巧拙、容姿の美醜はテキストの印象に多大な影響を及ぼし、必ずしも作家の意図したようには事は運ばない。テキスト−観客という回路は、あらかじめ俳優が分断しているのである。らせん劇場に限ったことではない。もとより演劇とはそういうものなのだ。そして台本が絶対者として君臨する時代は近代演劇で終わっている。SCOTを観てエウリピデスを、ピーター・ブルックの舞台を観てシェイクスピアを分析したところで、上演された演劇を批評することにはならない。
 したがってこれは劇評ではない。らせん劇場のテキストの読解である。

 まず、らせん劇場(都築)のテキストの作劇上の特徴だが、特定の言葉の提示からストーリーが展開する、というパターンが頻出することだ。
 ある人物が「ソドップ」という言葉を提示する(この言葉の意味、誰か判る?)。「ソドップ」は、その場の登場人物の全員が理解している言葉ではない。観客もそれが何の事なのか判らない。そこで「ソドップ」の意味内容を解説するためのシーン、逸話が劇中に挿入され、「ソドップ」なる言葉が全員に(観客を含めて)共有されるのである。これは表現の学習機能を土台にした作劇法で、落語やマンザイでもお馴染みの技法だ。

「てんしき? 何だろうなァ、てんしきって?あのォ、和尚さん、てんしきって何のことですか?」
「こらこら珍念、お前はてんしきも知らンのか? そんなことでどーするッ」

「そーゆーのをなァ、きみ、チョーMM言うねん」
「チョーエムエム? なんやのンそれ、チョーヨンピルの親戚かいな?」
「アホかきみは。チョーMMっちゅうのはなァ、チョー・マリリン・モンローゆうことや」
※この会話はハズシているところがミソなので、野暮と言うなかれ

こうした学習機能のひとつひとつが短いシーンになっていて、物語はその連続によって構成されている。だが、ここでの学習は、表層での言語変換=言い換えを理解したというだけのことだ。ある言語記号が指示象徴する対象が、別の言語記号であるという、一種の言語遊戯である。

 A−
 「うぉーたー」
 「うぉーたー、って何?」
 「水のこと」
 B−
 「うぉーたー」
 「うぉーたー、って何?」
 「摂氏0度で凍結固体化し、摂氏100度で沸点に達する無色透明な液体」

 AB共に、まず「謎」が提示される、続いて「問いかけ」。この「問いかけ」によって、提示された言葉が「謎」であることが確定する。そして「謎」の解明。ここで初めてAとBの状況が変わる。両者の違いは、新劇(日本型近代演劇)と八十年以降の小劇場演劇の差違でもある。Aでは記号「うぉーたー」は共有されている既知の記号「水」に置換される。Bでは記号は指示対象である「水」の実体に結合しているのである。この場合、質問者、つまり観客でもある受け手の側が、あらかじめ「水」に関する情報を所有している必要はない。むしろ知識など無い方が好ましい。そこで学習すればいいのである。Bタイプの新劇が啓蒙主義的な傾向を強く持っていたのは、学習機能が観客が無知であることを前提にして作動していたからである。観客は劇の主題を理解し新たな知識を獲得したことで、演劇体験が成立したのだと納得する。それに対してAタイプ/小劇場演劇は、特殊記号を一般的な記号に変換することに重きを置き、情報の共有を確認することで擬似的な学習快楽を誘引した。その結果、小劇場演劇の多くは、おびただしい駄洒落、語呂あわせ、言語遊戯の洪水となる。言葉はその場限りで消費され、多元的な解釈を可能にする記号群が物語の主題を無意味なものにしてしまった。表現された象徴が唯一の真実を指示する、魔術的な力は失われてしまったのである。
 ところが物語を先へ先へと推進してゆく力はAタイプの方が強いのである。それは自家撞着のAには「自分探しの物語」が内在しているからだ。しかもそれはお手軽なドラマツルギーであるため、アマチュア演劇人(小劇場系)はこの手の演劇に陥りやすい。

  「こんばんは」
  「こんばんは」
  「きみは誰?」
  「ぼくは誰?」

 私は「自分探し」など糞食らえと思っているので一向に興味がわかないのだが、若者たちには魅力らしい。カラッポの自分がそんなに愛おしいものなのだろうか。

 らせん劇場の解読に戻る。都築はじめは意図的に、意味を持たぬドラマ、無意味な演劇を作ろうとしている(作っている)。表現が意味を生成し、思想へと結実することを拒絶し続けているのだ。だから、らせん劇場の舞台には思想がない、理念がない、哲学がない。いや、ないと言い切ってしまうのは正しくはない。思想を持たないことこそ都築=らせん劇場の思想だからだ。

「あなたはどのような思想を持っているのですか?」
「『思想を持たない』という思想です」

これは詭弁だろうか?

 クレタ人は嘘つきだ、とクレタ人が言う。

 都築はじめは戦後の政治の季節にかろうじて間に合った世代に属する。目前に立ちはだかる思想の壁と対峙した経験を持つ、今では少数派になってしまった演劇人だ。それ故、無思想を標榜する都築の身振りは、私には不可解な屈折ぶりに見えるのだ。
 主題は表現する側が、意識的に提示してこそ意味内容として機能する。テキストの主題を伝える意図がない以上、らせん劇場の演劇から意味を読みとろうとするのはそれこそ無意味である。らせん劇場の出自は反新劇演劇だが、都築は新劇(日本的近代演劇)に対するアンチテーゼとして反新劇演劇を選択したのではなく、俳優の身体を通じてテキストの主題(言葉ではない)を観客に伝達するという新劇の枠組みを、反新劇演劇が解除しているところに惹かれたのだろう。だが当初から、らせん劇場の演劇活動がこうした姿勢で始まったとは思えない。どこかで転向・変節があったのだ。そしてそれは都築自身のテキストに秘隠されているはずだ。

 『SKIP』の物語には三つの勢力がある。最初に登場してくるのが、「おさびし歌舞伎」と呼ばれる芸能を演じる、「おさびし県」出身者たちの集団である。彼らはもとから徒党を組んでいたわけではない。異郷で再会した彼らは地域主義=県人会的に結びつく。
 第二の勢力は宝塚マニアの一群。自らヅカガールの男役に扮した三人の女は、この物語の中心となる舞台、地下のカフェ(酒場?)「ハスノミナレ」の常連客だ。ハスノミナレのマスターも男装の麗人である。富山県出身の女は一げんの客だが、ヅカマニアたちに監禁され、金髪のヅラをかぶせられて何故かキャサリンと呼ばれる。
 そして三番目の勢力が、地下の店の地下から銃とスコップを手に現れるKGBの工作員。長い年月を地下生活者としてトンネルを掘り続けることで過ごしてきた男は、いまだソビエトが崩壊したことを知らない。映画『アンダーグラウンド』を連想させる設定だ。
 ハスノミナレのマスター(男装)はしきりに「アンダーグラウンド」という言葉を連呼する。その響きは直接的には地下の店を意味しているのだが、同時に、今や死語となりつつある反新劇演劇の俗称「アングラ」に通底し、さらには崩壊ユーゴスラビアの映画へとスキップする。このサブリミナルな複線により、KGB工作員の唐突な出現にも違和感は覚えない(ただしこうしたテクニックは情報を所有していない観客に対しては何の効果もない)。
 店のどこかに隠されているという「おさびしの財宝」を狙い、おさびし県人たちの一団はハスノミナレに乱入する。そこにKGB工作員が加わり、三者の混線によって展開するドタバタ騒動が物語の主軸で、キャサリンが対立する三つの力を繋ぐセンターの役割を果たす。
 地下のカフェ・宝塚・キャサリン、とくれば、これはもう明らかに唐十郎の『少女仮面』が参照されている。『少女仮面』は六十年代アングラ演劇の金字塔といえる作品である。こうした他のテキストからの引用は、台本の随所に仕掛けられている。もちろん原テキストを知っているからといって、より豊かな演劇体験ができるかというと、そうとばかりも言えない。だが、作者と私が、ある特定の知識を共有しているということだけは疑うべくもない。
 それにしても、いまにして思えば岸田戯曲賞を受賞した『少女仮面』が、唐が初めて自劇団以外のために書き下ろしたものであったことは象徴的な事件であった。(私は唐十郎はその後、『少女仮面』を越える作品を創り上げてはいないと思っている)。しかも、『少女仮面』は早稲田小劇場=鈴木忠志のために書かれたもので、主人公の春日野八千代=地下喫茶「肉体」のオーナー=伝説の男装ヅカガールを演じたのが、当時、狂気の女優(あるいは化け物)と呼ばれていた白石−百物語−加代子だったとは。


 ぼくがまだ高校生だった頃、静岡のバスターミナルビルの近くに『カラス』という喫茶店があった。ヨーロッパ風のアンティックな雰囲気のある喫茶店で、文化人と呼ばれるような人たちや、お洒落な若い女の子たちがよく利用していた。
 その日、ぼくはカラスでらせん劇場の都築さんとコーヒーを飲んでいた。冬の誰そ彼時もだいぶ過ぎ、街は白い息を吐いて酒場へ向かうサラリーマンたちの姿が目立った。
 当時、都築さんはらせん劇場の活動以外にも、68/71黒色テントを招聘したり、いくつかのアングラ劇団の静岡公演を引き受けたりしていた。ぼくは高校を卒業すると同時に自分の一座を旗揚げするつもりでいた。都築さんもぼくも、演劇について語ることが山ほどあったのだ。
 何故早稲田小劇場の話題になったのか、その辺りは全く覚えていない。もしも「彼」の存在がなければ、ぼくは話の内容ばかりかカラスで都築さんと雑談をしていたことすら忘れていたはずだ。
 「彼」という記憶が証明しているのは、ぼくと都築さんが、早稲田小劇場あるいは鈴木忠志を批判していたということである。
 ぼくたちはテーブル席で話をしていた。すぐ横のカウンターでウイスキーをロックで飲んでいた男が、いきなり声をかけてきた。「彼」はこんなことを言った。
「さっきから聞いていると、あんたたち、ずいぶん言いたい放題じゃないか。あんたら、鈴木忠志さん、知ってるの? 知らない? ンならエラそうなこと言うんじゃないよ。忠志さんは俺のトモダチだけどね、彼はそんな男じゃないよ」
 何だ? 何を言っているんだ、この男は? ぼくたちが話しているのは鈴木忠志の演劇の事だ。鈴木の人間性だの人となりだの交友関係だの、そんなものはまるっきり無関係なのだ。何を取り違えているのか。
 男はグラスを片手にひとしきり演説をぶった後、こうしめくくった。
「あんたたち本気で演劇をやる気があるなら、ちゃんと東京へ出てってやんなさいよ。自信があるなら勝負したらどうなの。地方でチンタラやってたって駄目だよ」
 「彼」は一方的に話を打ち切り、ぼくたちに背中を向けた。
 やはりぼくは、あの場で「彼」を殴り倒すべきだったのだ。こんなバカげた記憶として残すようなことを許すべきじゃなかった。でもぼくたちはそうしなかった。理不尽な攻撃に対する準備が、少なくともぼくには、なかったのだ。
 都築さんは、らせん劇場、はいまだに東京へ出ない。まるで「彼」の捨て台詞に抗うかのように、東京公演を全く射程に入れていない。ぼくは襤褸を纏ったり、髪を染めたり、ピアスの穴を開けたり、身体を念入りに装甲した。「彼」のような存在を近づけないようにしたのである。だがある意味、ぼくは「彼」の挑発にのってしまったのだった。


 ところでここで押さえておきたいのは、この物語、『SKIP』の素材となっている「歌舞伎」と「宝塚」は、六十年代の反新劇演劇=初期アングラ演劇によって、その様式が戦略的に引用されていったという歴史的な過程である。反近代を具現する歌舞伎は、日本的近代演劇=新劇を批判する装置として充分に有効であったし、なによりテキストの意味を分断してしまう形式化された異形ぶりは、今でこそ誰も驚きはしないが、その時分の若い観客には強烈なカウンターパンチだった。
 鈴木忠志は能の所作を参照し、俳優の演技を反自然主義的に形式化した。河原乞食を自称する唐十郎の江戸趣味は戯曲を反近代へと向かわせ、寺山修司の提唱する「見世物小屋の復権」は、俳優の身体が直裁的に異形を具体化するよう煽動したのである。
 前述したことと重複するが、いずれも、新劇以降の俳優の身体性を含めた演技術が、物語の主題を伝達するための形式へと衰弱していったことを批判的にとらえ、逆に形式そのものに物語を予感させる劇性を与えようとしたのだった。それは民族的なもの、あるいは伝統への回帰などとはまるで無縁であったのだ。
 「歌舞伎」「宝塚」への個人的な偏愛が都築はじめにあるのかはいざ知らず、都築もまた歌舞伎を伝統芸能という範疇ではとらえてはいない。歌舞伎は元来の意味どうり「傾き」であり、おさびし県人たちも宝塚マニアたちも「異形」を即物的に体現する。

 私は、反新劇演劇は以下のような理由から、「異形」を必要としたのだと推察する。共同体内部の異形=他者は、共同体に対する批評装置として機能する。異形は外部と内部をつなぐ「門」なのである。異形の存在を容認できる寛容さが、共同体の閉塞、自閉を回避することができる。異形を許容できぬ共同体、あるいは文化と呼んでもいいが、は必ず衰退する。自己組織化し、勝手に構築されてゆく形式を破壊できるのは異形をおいて他にはありえない。したがって制度打倒を標榜する反新劇演劇は、是が非でもその内部に異形を保持しなければならなかった。
 だがしかし、共同体の成員の全員が異形である場合はどうか? 一つ目小僧の国では一つ目が普通なのだ、というたとえもある。変態役者も「衆」となれば特殊性は解消される。猥雑さは影をひそめ、「異形の紋切り型」が現出する。紋切り型へと押しやられた異形には、既に安全装置がかけられている。畸形性は観客を異界へと誘う「ハメルンの笛」であることをやめ、面白おかしい道化として笑いを集める。ねェねェ、あの人、ちょっとヘン。ほーんと、オモシローイ。

 イデオ・サヴァン(聖なる愚者)はそれでもやって来るのか?

 さて、『SKIP』で重要な役割を果たす「おさびし県」という県=地域共同体について論考しなければならない。「おさびし」が、らせん劇場(都築はじめ)の劇世界にあらわれはじめたのは、八十年代の半ばからである。それは「おさびし山」であるとか、「おさびし村」であるとか、幾つかのバリエーションがありはしたが、都築は執拗に「おさびし」のモチーフを提示してきた。このこだわりは何に由来しているのだろうか。
 コピーライターというもう一つの顔を持つ都築は、時代の言葉を読む術にたけた演劇人である。言葉をメシのタネにしている男が取り憑かれた言葉「おさびし」には、都築が繰り返し自問してきた事柄が潜在しているはずだ。
 私が「おさびし」という言葉で即座に連想するのは、七十年代初頭のテレビアニメ『ムーミン』である。国際アンデルセン大賞(だったか?)を受けた北欧の童話が日本のアニメに置き換えられたとき、この物語には原作にはない象徴性が加算された。スナフキンの設定である。原作でのスナフキンは主人公のムーミンと同世代の遊び仲間だが、日本版『ムーミン』のスナフキンはムーミンよりも一世代年長、兄貴役に変更されていたのである。
 当時の子どもたちにとってスナフキンは、六十年代から七十年代にかけてのカウンターカルチャーや反体制を体現するキャラクターであった。一人ギターをかき鳴らし、タバコ(大麻?)をふかし、テント生活を続けるスナフキンを、私たちは流れ者・アウトサイダーの理想像として理解した。実際、スナフキンに影響されてギターを手にしたロック野郎は、私たちの世代には少なくない。スナフキンが都築のヒーローだったとは思わぬが、「おさびし」が指示連鎖する対象として『ムーミン』を考えるのは、ごく自然な成り行きであろう。
 興味深いことには、『ムーミン』の世界は過剰な異形性に満ちあふれている。ピンヘッドを思わせる姉妹や、アルビノのキャラクターはもちろん、サリドマイド禍児を連想させるような生物もいた。キャラクターがことごとくフリーク(畸形)なのである。『ムーミン』に登場する犬や鳥は、言葉を解さなかったはずだ。ならばムーミン谷の住人は、やはり人間だったのだろう。
 私は、福祉国家が産出した「フリークスの共同体」が、『ムーミン』に潜在する暗示だったのではないかと思う。そのように考えれば、都築は「おさびし」という言葉に「異形者たちの共同体(楽園)」を重ね合わせていると読むことができる。
 今回登場した「おさびし県」は、日本地図に載っていない県だ。劇中での説明によれば、おさびし県は「ひょっこりひょうたん島」のように浮動している土地だという。土地そのものが移動している県には不動産が存在しないため、おさびし県は日本一貧しい。言うなれば「おさびし」は流浪する共同体なのである。
 民俗学では地域に定住する常民に対し、定住しない漂泊者や流れ者を非常民とする。それはすなわちヤクザ者であったり、オカマであったり、カブキ者であったりする。いずれも芸能者と類縁関係にある人々だ。もとより芸能者は異形であるが、だがしかし、芸能者であるが故に、彼らの異形は許容される「形式」として社会=共同体から認知されているのである。  ここに至って「おさびし・おさびし県」は被差別部落のメタファーとなる。
 このように読み込んでゆくと、登場人物たちは全員、被差別者の記号を背負っていることが判る。おさびし歌舞伎一座の者たちは、彼らの背後にある被差別地域の出自からくる差別を、カブキ者という認知された差別観を引き受けることによりすり替える。
 宝塚マニアの女性たちの異形さは、外見の奇異もさることながら、彼女たちのコミュニティーに「女役」がいないことに起因する。彼女たちは皆、髭をたくわえた男役、いわゆる「タチ」なのである。女性が通念としてある「女性らしさ」を放棄したときに生じる軋轢は、宝塚の男役という異形にすり替えることでうやむやにされる。
 KGBのロシア人のアイデンティティーはコミュニズムだが、冷戦後の今、コミュニストは差別の対象である。戦前や冷戦時とはまた違った意味で異形なのである。
 ハスノミナレの女性客、キャサリンあるいはナターシャ(だったか?)と呼ばれる女だけはマトモに見えるが、彼女は「富山県人」として、いわれなき激烈な差別を受ける。
 出自(歴史的/地域的/民族的)的被差別、性的被差別、思想的被差別と、これで差別の三本柱がもののみごとに揃った。無制限大放出打ち止めのパターンである。

 「ハスノミナレ」は異形の者どもが集結する悪場所と化す。悪場所はすなわち、祭儀の空間でもある。忌み場所が一転して聖域に変ずるドラマツルギーは、古来からの常套である。案の定、司祭は最後の最後に登場する。「ハスノミナレ」の奥の部屋より現れる真の主人。それは都築はじめが演ずる、老女か老オカマか判らぬが、派手なドレスで着飾ったヅカマニアである。実は老主人は「富山県女」が捜し尋ねていた、彼女の「おばあちゃん」だった。『SKIP』の物語はこの一点、この一人の人物に集約される。老主人は「おさびし県出身」で、「ヅカマニア」で、「地下生活者(元コミュニスト?)」で「富山県女の肉親」。つまり物語はハスノミナレ主人の属性によって構成されていたのである。
 終幕、散乱するエピソード群は、こぢんまりと終息する。宝塚組とおさびし歌舞伎組は共同で「劇団」を結成する。新たな共同体に統合されるのである。共同体には、元KGBロシア人もスタッフとして迎え入れている。おさびし劇団は、宝塚歌劇団のようなきらびやかな洋装をまとった俳優が「ちょんまげ」をかぶり、着物姿の俳優がムラサキのウィグ(鬘)をつけるという、なんとも珍妙な異形ぶりなのである。混交/混血の結果として生み出される、予期せぬ(革命的な)形式はそこにはない。これは異文化交流の醜悪なパロディである。ミソもクソも一緒くたにしたこの状態を、都築は無節操にというか、理念なきまま「ごった煮」と称しているのか。ハチャメチャさも破綻もない、ほのぼのと手際よくまとめられたハッピーエンド。
 だが、ハスノミナレの老主人は、酒に酔ったおさびし歌舞伎一座の若者たちに老醜を指摘され、その場であえなくショック死する。万事が丸くおさまり、大団円が成立する途上、何故、彼女一人が死んでゆかねばならないのだろうか。共同体の回復(獲得)の物語劇の中で、唯一、死んでゆく人物を都築自身が演じているということは甚だ象徴的だ。
 座標の中心なき世界では、価値判断は宙づりにされる。異形たちの共同体ではすべてが相対的なのだから、もとより美醜の基準などあるべくもない。老主人の美が、価値決定されるはずがないのだ。なんでもあり、をよしとするドラマツルギーに、老主人がショック死する必然性はない。たぶん都築ならば「なんでもあり」なのだからそれでいいのだ、と言うだろうが。
 サクリファイスでもヒロイズムでも何でもいい。人ひとりの死によって共同体が回復されるのなら、さっさと誰かが死ねばいいのだ。二千年前に行われたその大博打がスカだったことは、子供でも知っている。

エリエリラマサバクタニ

 私たちの歴史は、人ひとりの死が犬死にであったことの連続ではないか。

 ここまで言及せずにきたが、『SKIP』にはもうひとつの物語がある。それは二人の天使の物語である。『SKIP』は、この天使と呼ぶにはあまりにも奇怪ないでたちをした二人の異形の出会いで幕を開いたのである。ひとりぼっちの天使とひとりぼっちの天使の出会い。初めてできたトモダチ、初めてできた共同体。
 シブヤとシンジュクという名の奇怪な天使たちは、狂言まわしのサブテキストであり、表層のストーリーにはつながらない。しかしだからこそ、そこには濃密な意味群が存在しているのである。『SKIP』の無邪気なカラ騒ぎは異形の天使の物語によって幾たびも切断される。思想性を問わぬ劇世界の亀裂の内に潜む、強力なテーマと悪意。

 天使が言う。
「何か話をしよう」
「話すことなんかない」
「話すことがないことについて話そう」

 話すことがないことについて話す。私はこのレトリックこそが、二十年もの間、劇団の活動を継続させた都築のサバイバルのテクニックであり、らせん劇場のドラマツルギーだったのだと思う。

「あなたはどのような思想を持っているのですか?」
「『思想を持たない』という思想です」

 延々と繰り返される行為(話すことがないことについて話す)によって、物語の「終わり」は遅延され続ける。都築もまたこの時代に、「終わらない日常」などとあたりさわりのないキャッチコピーをコギャルに人気の先生のようにかますのか? 援助交際のガキに甘言を弄するなかれ。
 しかし、天使シブヤは天使シンジュクを見失う。突然、何の前触れもなくシンジュクは去ってしまったのである。シブヤは再びひとりぼっちになる。シンジュクとの邂逅が、つかの間の至福を(たとえそれが幻想であったとしても)もたらしていただけに、シブヤの喪失感は深い。シブヤが孤独に抗う場面は、この劇の一番の見どころと言ってもいい哀切なシーンだ。馬鹿騒ぎの背後に暗く拡がる、この空虚さ。私には、それが都築自身の偽らざる心情に思えてならない。
 人はなぜ共同体を求めるのだろうか。最も切実に共同体を求める都築が、最も孤独なのだろうか。いや、最も孤独であるからこそ、帰属できる共同体を求めているのか。

 個人の真実は全体の真実とはなりえない。その逆は? 全体の真実など存在しない。あるのは個別の真実のみ。ならば全体は、いかなる価値があるのか。

「ぼくは寂しい。トモダチが欲しい」
「馬鹿だな君は。トモダチがいないから寂しいンじゃないか」
「そうか、それじゃァ、このサビシイって感情はトモダチがいないという意味なンだね」

 福祉集団=劇団の内実は、なんと殺伐としたものなのであろうか。だが私はその心情に共鳴することができない。残念ながら。

 表層のおちゃらけた記号=演劇空間の皮膜を引きはがせば、荒涼とした都築の心象が見えてくる。無限に反復し継続する(これが神秘主義における「らせん」の象徴的意味だ)ことを演劇人のアイデンティティとした男の闇である。その闇を共有できぬ共同体=劇団など偽瞞でしかないのだ。私、個人、はそのように考える。


らせん劇場公演『SKIP』は、静岡県の助成を受けて
1996年11月22・23・24日、静岡・サールナートホールで上演された。
作・演出、都築はじめ。前売り1500円、当日1700円。