ART CRITIC / CRITICAL ART #69 
劇場ジャック公演  「Not Fade Away」
 劇場ジャックは静岡大学の学生劇団である。静岡ライブシアター '96のチラシには「劇団ジャック」と記載されていた。劇団に確認したわけではないので、どちらが正しいのか私には判らない。チラシの誤植だと思うが、この劇団、意外とくせ者で、二つの名前を併用しているのかもしれない。
 このところ静岡では学生劇団の数がにわかに増えている。八十年代の小劇場ブームの頃には、雨後のタケノコのごとく学生劇団が増殖し、ブームの底辺を実質的に支える推進力となっていったことを思い出す。内実はともあれ、静岡の演劇状況が活況を呈しているのは確かなようだ。

 一幕一場の劇。装置は数脚のパイプ椅子だけ。何もない舞台空間でナンセンスな物語が展開する。大学のサークルの部員勧誘。そこに集まる数人の若者。拳銃が持ち込まれ、麻薬が持ち込まれ、混線、混乱、逸脱。饒舌な言葉あそび。方言、地口、奇妙な語尾や若者言葉の速射。テレビのバラエティ番組で人気を集めるタレントたちのような演技。吉本新喜劇の若手芸人が演じるコントショーのように見えてしまう。彼らが言う「スピード感」とはこのことを指すのか。
 この芝居では麻薬が重要な小道具として使われている。麻薬で登場人物の性格が豹変したりする。言うなれば酒に溺れて人事不省、さんざん暴れて記憶にございませんと茫洋とする状況と大差ない。かつては精神の内宇宙を探査するための崇高な一服だったものが、今やお手軽な多重人格発生装置。彼らにとっては麻薬はすでに身近なものなのだろうか。もっともドラッグに対する幻想が薄れれば、ウブなまま何とかのイニシエーションで飲まされてしまって、神とご対面してしまう困った人たちも減ってゆくのかもしれない。バカとハサミとドラッグは使いよう。
 風俗性が強いのだが、それが妙に古くさく、現在の流行とどうもズレているように思える。故意にズラしているのか、あるいは私自身が二十歳前後の彼らの感覚からズレてしまったのかもしれない。ううむ、毎週「すごいよ!!マサルさん」を愛読している私が、昭和五十年代生まれの日本人のギャグについてゆけないということがあるだろうか。
 と、こう書いてくるとまるで笑えぬ芝居のようだが、実はこれがなかなか悪くない。的を微妙にハズシたギャグのセンスがたまらなくオツである。
 それはともかく、これまで観てきた静岡ライブシアター '96の中では、最も暴力的な劇世界が創られている。暴力性に満ちた劇表現だからそれが優れているわけではないが、今日の世界を正しく再現するための主軸は、愛や人情ではなく「暴力」だと私は考えている。(もっとも演劇活動を行うこと自体が既に観客に対する「暴力」だと思えるような劇団もある。これは表現と言うより、現実の「犯罪」に近い)。その意味で劇場ジャックは今日的な演劇たりえる。ただ、その暴力性が思想と連動していないため、私たちの意識を震撼とさせるには至らない。例えばアウシュビッツのような「持続する暴力」を成立させているのは理念であり、そこには暴力を正当化する「正当ではない根拠」がある。アウシュビッツもエスニック・クレンジングも二十世紀の人間の精神の産物だ。そうした意図的・作為的な暴力に対し、劇場ジャックの舞台の暴力は、突発的な事故のようなものだ。根拠のない、幼児的な暴力。生理的だが必然的ではない。(スカトロ系のギャグが多いことからも、この劇団は幼児性が強いことがうかがえる)。
 しかし、それでもなおかつ彼らの暴力性は今日性を持っている。それはここにみられる暴力が、昨今のいじめ現象とリンクしているからだ。

 パンフレットによれば、この芝居にテーマはないということだ。本当にそうだろうか。(彼らが何をもって「テーマ」としているのかは測りかねるが、ここでは「主題」と理解して話を進める)。主題は演劇の創作過程の中から自ずと立ち上がってくるものだ。それは設定されるのではなく、稽古場で創作者によって発見され、劇場で再度、観客によって発見されるものである。

 劇作家は己の思考ルーチンに沿ってテキストを書く。書かれた台詞によって俳優は、発語を限定される。テキストは指示であり、「制度」である。単純に言えば、劇団=集団がその「制度」を無条件に共有すれば新劇的、「制度」に対して批評的ならば反新劇的ということになる。
 俳優が不本意な演技を演出家に強要されたとき、その俳優はどのように対応するだろうか。異論を抱きつつも演出家の意向を受け入れれば、俳優は劇団のヒエラルキーに従ったということか。演出の絶対権力を認めぬ劇団であればそこで衝突が発生し、様々な交渉が始まるだろう。私たち観客はこうした創作過程までをも見ることは出来ないが、しかし私たちは上演される舞台が偶発的に現れたものではないことを承知している。偶然性は舞台を支えるものではなく、たんに舞台に介入する要素でしかない。あくまでも演劇空間は創作者たちによって企図されたものだ。
 少なくとも、日々の生業から離れた趣味の領域で行われているアマチュア演劇に関しては、この図式が通用する。自発的な表現行為であるアマチュア演劇は、上演台本を決定するにあたって、何故そのテキストを選んだのか、選定の根拠が明示され共有されなければならない。そうでなければ「やりたいことをやる」という自発性が失われてしまうからだ。したがってアマチュア劇団の舞台では、創作者たちにとって納得できない表現はなにひとつないはずだ。理屈の上ではそうなる。
 劇場ジャックのように、同世代の者同士が集まってオリジナル作品を上演する小劇場演劇的劇団は、上演テキストを解析するということが少ない。テキストに内在する思想があらかじめ同時代的に共有されているため、わざわざ再確認する必要がないからだろう。そこには暗黙の了解があり、これこそ日本的な共同体の産物である。

 この芝居、『Not Fade Away』の主題は共同体の構築、あるいは回復だ。それぞれにトラウマを持った孤独者たちが、いかにして共同体を仮構するか。登場人物たちは同じ大学の学生なのだが、それだけでは共同体の意識は成立しない。共同体への帰属感を生み出す要因は、「事件」である。ただし事件の中心人物が共同体の外部であると仮想されることを条件とする。事件は銃や麻薬によって発生する。例えばこの芝居では、銃を持った女が麻薬でラリって、その場に居合わせた面々に銃口を向ける。女以外の全員が、この状況下では平等であり、危機を回避するために強固な共同体が臨時に組織されるのである。実に単純な構造だが、「いま、そこにある危機」が共同体・共同体意識を成立させ、人と人をつなぎとめるという認識は、まったく正しい。1994年の阪神大震災では、悲劇的な形でそのことが実証されている。災厄は暴力であり敵であり、私たちはそれを外部とみなすことで、内部=共同体を保持することができる。明らかな敵が外部に存在していれば、とりあえず共同体は安定している。

 だが外部は、排斥され排除されるような他者であれば何でもかまわない。仮想敵でも異民族でも火星人でも、とりあえず彼我の区別がつきさえすればいい。差別化されうるものならば、どんなものでも外部になりえる。

 こうした状況の背後に、いじめの構造は横たわっている。冷戦構造の崩壊後、共通の敵を見失った共同体は、内部に仮想的を作り出すことでこの状況を乗り切ろうとしている。殺人や自殺が容易に起こりえる閉塞感の中で、当事者たちは共同体を強く意識しているのであろう。これは連綿と続く日本人の精神構造だろうか。

 劇の終幕、危機は去り、体験を共有した登場人物たちの間には、漠然とした共同体意識が芽生える。さっきまではコミュニケーション不能な他人であったものが、いまでは苦難を共にした仲間である。幸いなことに、今回の事件では死者も怪我人も出なかった。しかしこの次はどうなるか、それは誰にも判らないのである。

 いかなる表現にも必ず創り手の精神が、暗号のように残されている。テーマ=作者の主張、と考える作者による表現は、作者の想念が鑑賞者へのメッセージとなって作品上に表れる。特に言語を介在させた表現は、その顕在化が明瞭だ。問題は暗号の難易度である。明晰な意識によって表現された事象ほど、暗号化の度合いは低く、作者の精神と表現のつながりが理解し易い。無自覚に表出された表現には作者の潜在的な意識が記されるが、往々にして作者はそれを認めたがらない。また暗号化が複雑なため、解読も容易ではない。だがいずれにせよ創作者たちの精神の痕跡は、舞台上にはっきりと残されていて、それを隠蔽することは無理な相談だ。劇場ジャックの舞台にしてもまたしかり。タイトルは内容とは何の関係もないと演出は言うが、まさに「Not Fade Away」なのだ。

 漫画的な展開ではあるが、「現在」の学生たちの等身大の物語である。悪くない。

劇場ジャック公演「Not Fade Away」は、静岡県の助成を受けて
1996年11月29・30日、静岡・静岡市視聴覚センターで上演された。
作・演出、宮川大輔。前売り400円、当日500円。

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