ART CRITIC / CRITICAL ART #70 

静岡大学演劇サークルSept公演 「半神」

 物語は結合胎児(シャム双生児)という異形から始まる。醜いが明晰な姉と、美しい白痴の妹。二人は半身でつながっている。妹が美しいのは身体の生気を独り占めしているためだ。姉はいつも干からびている。
 この劇の下敷きとなっているのは萩尾望都の作品だったと思う。元テキストは、もっと思弁的なものだったのではないかと推測する。どうも野田秀樹という人は言語遊戯に熱中するあまり、意識の闇へダイブしてゆくような哲学者の遊びにはとんと興味がないようだ。

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 実を言うと、ぼくはこの物語の筋を覚えていない。ラストシーンがどうだったかももう忘れてしまった。
 これは演劇公演というよりも、たんなるサークルの発表会だ。大きな声で「演劇です」と呼べるような代物じゃない。でも、だからといって非難されるにはあたらない。静岡ライブシアター '96に参加していた公演のほとんどは発表会以上のものじゃなかった。たまたまメンバー全員が静岡大学の学生であるという特殊性が、発表会の印象をより強くしただけだろう(と思いたい)。ことによると観劇料のせいかもしれない。250円という破格の料金。
 ぼくはSeptのこの芝居に関しては、批評したくない。でも、ぼくが見たものについては、きちんと語りたいと思う。

 この三ヶ月というもの、ぼくは毎回千何百円の観劇料を払って、さんざん地域の劇団や出演者たちの自己満足を見せつけられてきた。俳優の自己顕示欲をリビドーの一種とすれば、彼らはぼくたちに見せるために都合のいい自我を披露することでイき、そこでイッたことをぼくたち観客に見せつけることで更にイクわけだ。「見せる」という欲望だけが舞台上で際限もなく増殖してゆく。小中学校や女学校の裏の小道を徘徊してる露出狂と変わらない。
 ストリッパーと露出狂の差異って判るかい。ストリッパーが舞台に立った露出狂だと思ったら大間違いだ。露出狂は「見せる」ために裸になる、ストリッパーは「見られる」ために裸になる。静岡で演劇(のようなもの)をやっている人たちは、この違いが理解できないんじゃないかな。
 ぼくはこう考えている。俳優の仕事は観客に「見せる」ことじゃなく、観客に「見られる」ことだって。塀の陰からいきなりとびだしてくるフルチン野郎になんか、誰もお金を渡したりしない。でも覗き部屋のマジックミラーの向こうで服を脱いでゆく女の子には、ちゃんとお金を払う。ぼくたちが「見て」、彼女が「見られる」ことに対して、ぼくたちは代償を支払わなければならない。「見る」という行為は暴力で、彼女は常にその犠牲者だからだ。そして「見せる」ことはそれ以上に暴力的なのだ。
 俳優はこんな形で観客に暴力をふるうものじゃない。これは実際の物理的な暴力よりも酷い。ぼくたちがチケットを買って客席に座っているのは「見る」ためで、決して見せられるためなんかじゃない。もちろん「見せられる」のが嫌なら、さっさと席を立って劇場を出てゆくという手もある。でも変な話だ。ぼくは「見る」欲望を抱き、その贖いとして現金を支払った。既に罪の清算は済んでいるのに何故、劇場を追われなければならないのか。かくして客席に座っているぼくは「見せる」俳優の暴力に対し、徹底的に「見る」ことで対抗することになる。暴力を暴力で制す。
 ところが事態は悪くなる一方だ。ぼくの「見る」ことは舞台上の彼らにとどかない。誰も観客の視線を真剣に受け止めていないのだ。俳優たちは「見せる」ことは熱心でも、「見られる」ことには無関心だ。だからぼくの抵抗はまるっきり空転している。これは実にむなしい。テクニックも経験も無いくせに、若いというだけで数万円を払わせるバカ女とホテルへしけこんだみたいだ。もっとも世の中、蓼食う虫も好きずきで、そういう女が好きなんだという輩もいるのだから難儀である。

 Septにしても観客に「見られる」ことを引き受ける俳優なんていやしない。演技なんてひどいものだ。舞台上での基本的な作法が習得できていないのには本当に閉口した。立ち位置が照明からはずれ、暗がりで演技をしているなどということは、芝居以前の問題なのだ。
 けれどもSeptが他の劇団と決定的に異なっている点がひとつある。それはSeptが「見せる」欲望を舞台の上にのせていないことだ。観客に向かって暴力的に放射される自己表現はSeptの舞台にはない。

 ここにあるのは共同体を成立させようとする素朴な意志だ。

 共同体の回復や構築を夢想する演劇なら何本も観てきた。この九月以降、ぼくが出会った演劇の半数以上が、多かれ少なかれそうした傾向を物語に内在させていた。ただしそれはあくまでも副次的なものでしかなかった。何度も言うようだけど、彼らにとって演劇は、「私という自分」を観客に見せる欲望によって目的化されたものだ。みもふたもない言い方をしてしまえば、それが演劇である必然性なんてまったくないってこと。自己露出願望が満足できれば何でもよかったんだろう。だから客席にいるぼくにも、彼らが演劇表現をする根拠がちっとも伝わってこない。それでも彼らには女優/男優/演劇人という自負だけは充分すぎるくらいあるのだ。

 たぶんSeptは自分たちが演劇人だとは思っていない。

 Septは現実に、本気で疑似共同体を創ろうとしていた。たとえそれが一時的なもの、数年の学生時代だけのものではあっても。いや、期間限定の共同体だからこそ、彼らは欲望することができたのだろう。永続性を射程に入れた共同体であれば、彼らは望まなかったはずだ。その目的をはたすためには、どうしても「演劇」という制度が必要だったのだ。たしかに彼らはこのような「場」を必要としていたし、「演劇」という表現は彼らにその「場」を与えることが出来たのだ。それは演劇でなければならなかったのだ。

 ぼくたち観客は無視されている。でも当然だ、ぼくたちは彼らの共同体の一員ではないのだから。もしかしたらぼくの前の席で観劇していた女の子たちには、舞台との一体感があるのかもしれない。舞台上の彼らと大学という地域社会を共有していることで。

 ぼくはこの物語の筋を覚えていない。ラストシーンがどうだったかも忘れてしまった。舞台の幕が降り、続いてカーテンコール。出演者、裏方全員が舞台に並び、この公演を最後にサークルを去り、大学を卒業してゆくメンバーが紹介される。学生のサークル活動ではおなじみの場面かもしれないが、ぼくはこの光景だけははっきりと思い出せる。そしてそのたびに、なにかせつないような気持ちになるのだ。

 ぼくはSeptの演劇を「面白いから観に行ってごらんよ」と、電話で友だちにすすめたりはしない。だって面白くないし、「演劇」と呼べるような代物じゃなかったんだから。表現としても褒められたもんじゃないと思う。だけど、それでもぼくがある種の感銘を受けたことはまぎれもない事実だ。

 ここにはぼくが既に失ってしまったもの、ずっと昔にほんのわずかな間だけ親しんでいたものがある。やがては彼らもそれを失うのだけれど。
 この表現が稚拙だろうがゴミだろうが、そんなことはどうだっていい。ぼくはここで行われた行為を支持する。批評もへったくれもない。彼らのためじゃない。ぼくのためだ。


■付記
ぼくは今回静岡ライブシアター '96の中部地区公演を全て観るにあたり、リサーチも兼ねて、観劇した全劇団に一律、魔人レコード/水銀の名義で清酒と祝儀を入れた。その結果は、近々インターネット上で公開報告するつもりだけれど、Sept代表の中島さんからは、後日たいへん丁寧なお礼状をいただいた。別に地域の劇団に対し何かの反応を期待していたわけでもないし、こんなことは演劇や表現の内実とは何の関係もないけれども、それでも初めてオフィシャルに返ってきたまっとうな応対だったので、正直、嬉しかった。Septを心情的に支援しようと思い立ったことの正しさが証明された、と手前勝手に解釈しています。


静岡大学演劇サークルSept公演「半神」は、静岡県の助成を受けて
1996年11月30日、静岡・県女性総合センターあざれあホールで上演された。
作、野田秀樹。演出、中橋のりこ。前売り、当日250円。

■追・付記
祝儀作戦の結果をネット上で公開しようと思い立ってから、ずいぶん時間がたってしまった。しかるに、忘れた訳ではない。静岡の地域劇団よ、首を洗って待っていろ。礼節を欠く者たち、このままで済むと思うな。
1999.06.04