ART CRITIC / CRITICAL ART #96 

第6回しずおか演劇祭  「ドリームファンタジー 青い鳥」
 市民文化会館中ホール。しずおか演劇祭主催者公演『青い鳥』を観る。市民参加型のプロデュース演劇もずいぶん水準が上がったものだなあ、と世辞ぬきで感服した。演技のレベルが統一されているので、見やすい芝居に仕上がっている。俳優間の力量の、というか演技のクオリティの差がほとんどない。逆に言えば、演技術のレベルを比較的低い位置に設定しているということなのだが、これをもって志が低いなどとは決して言うまい。健常者と障害者が共働できる演劇を考えるならば、制作者たちの意図は実に明瞭。彼らが求めているものは、崇高な芸術でも優れた技芸でもない。老人から子供まで、あらゆる市民が等しく共有できる「場」なのだ。
 元ネタは言うまでもなく『青い鳥』、幸せの青い鳥を捜すチルチルとミチルの話である。ここでは「青い鳥」の物語が、二人の老人の子供の頃の想い出(夢?)として語られる趣向になっている。この構成はなかなかヒネリがきいていて、終幕では、物語の結末の記憶が二人の間で齟齬をきたすのである。媼は青い鳥を見つけたと言い、翁は青い鳥は見つからなかったと言う。味な演出だ。だいたい、劇の冒頭、老人たちが昔語りを始める場所からして「老人収容所」である。強烈な毒のある、秀逸な設定ではないか。アングラ演劇の継続者たらんとする演出家、佐野暁の意地であろう。
 だがその一方で、これで本当によいのだろうかと思う部分もいくつかあるのだ。幕開けの静かな場面は、一転して中世ヨーロッパのカーニバルのような祝祭空間となる。おびただしい数の登場人物が突然、舞台上に現れ乱舞する。奇怪な仮面をつけた人々、荒々しくうち振られる色とりどりの旗、暴走する車椅子。その鮮烈なイメージは、劇の全編を通じて持続する。物語を通底する主旋律が決定された瞬間である。
 私はこの最も印象深い、したがってこの劇の根幹をなすと思われる意匠に、一抹の懸念を抱くのである。
 歴史の上でカーニバル(我が国においては季節ごとの「祭り」)は、普段は共同体から抑圧を受けている被差別者の、つかのまの解放区として機能してきた。日頃忌み嫌われている者たち、「異形者」が、そこでは一時的に「聖性」を与えられるのである。古代宗教社会において非健常者は、特殊な役割を持つ人々と考えられていた。日常では人並み以下の能力しか持たない人間は、非日常時空間では特別な能力を顕現させると発想されていたのである。非日常の端的な例は「儀式空間」である。身体障害者の肉体が、精神障害者の心が、現世と異界を結ぶ「門」としてシャーマニックな儀式内に組み込まれた。こうした呪術社会の秘教儀式から宗教的な側面が失われてゆく過程で、カーニバルが発生する。
 劇の冒頭で提示されるカーニバルによって、私たちはこの劇空間があらかじめ被差別者への抑圧を解除した場であると了解してしまう。だから私には、この演劇の外側(日常)に生きる彼ら(出演者全員)の姿がまったく想像できないのだ。
 電脳化された現代市民社会は、生活の中からカーニバルや祭りを駆逐していった。それに伴い異形者は共同体における特殊な役割を失った。演劇空間が彼らに残された数少ない居場所となっているのは寂しい話だ。いや、だからこそ演劇は彼らを自発させる装置として、機能として、踏みとどまらなければいけないのかも知れないが。

 光の精(最高位の聖性!)という役を演ずる車椅子の女性は、重度の言語障害(正しい用語でなかったら失礼。一般的な発語が困難である、という意味です)を持っている。観客席の私には、彼女が何を言っているのかまるで判らない。ところが舞台上の登場人物たちは、何の苦もなく光の精の発言を理解しているのである。何故それが可能なのか? 俳優たちには台本がある。光の精がどう発語しようが物語は進んでゆくのである。定められた筋書きに従って動いてゆく世界を、そのまま受け入れることが果たして正しいことだろうか。何の疑問も抱かずに、与えられた運命を甘受する私たち怠惰を、彼/彼女の障害は分断する。私たちを立ち止まらせ、振り返らす。しかし登場人物たちは決して問い返さない。あなたは何を言っているのか、あなたは何を言いたいのか、とは言わない。
 劇場の内部で、観客席の中で、私は私が理解できぬ言語を使う「他者」と接している。光の精を演ずる俳優は、異文化のメタファーでもある。ディスコミュニケーション。交渉不能。だが私が、私たちが彼女の言葉を理解するとき、彼女は外部=他者ではなくなるのだ。それはいかにして起こるのか? 舞台上で展開される奇跡のコミュニケーションは、私の疑問に対する回答とはならなかった。
 同じ理由から私には衝撃的だった場面がもう一つある。それは登場人物が「手話」で会話をするシーンだ。口語会話の代用物としての「手話」という印象は全くなく、私が参入できぬ形式で、彼らが意志を疎通させているのは神秘的でさえあった。彼らは口承とは別の方法で、言葉を交わしているのである。いや、待て。それは確かなことだろうか。本当に彼ら間にはコミュニケーションが成立しているのか。私がそう思っているだけなのではないか。
 ここにはコミュニケーションをめぐるきわめて重要な、そして非常に魅力的な問題が潜在していて、私の日常感覚に激しく揺さぶりをかける。

 私が他者に伝えたいものは何なのだろうか。それは言葉なのか。もしも言葉で言い表せない事柄を伝えようとするならば、それはいかにして伝達可能なのだろう。

 私が述べてきたような疑問は、創作者が関知するものではないだろう。創作の物理的な困難は、私などには計り知れないものであろうし、観念的な思弁のあれこれなど後回しになって当然だ。したがってコミュニケーション云々の問題は、図らずも照射されたと言うべきか。作品の完成度が為せる技である。舞台装置も申し分なし。


第6回しずおか演劇祭『ドリームファンタジー 青い鳥』は、
1997年3月29・30日、静岡・静岡市民文化会館中ホールで上演された。
原作・メーテルリンク、演出・佐野暁。前売り1800円、当日2000円。

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