ART CRITIC / CRITICAL ART #97 

花咲くすみれ組 旗揚げ公演  「ふわふわ」

沓谷の生活文化実験室で、花咲くすみれ組の旗揚げ公演を観た。主宰する味の素あーやは、以前はらせん劇場の俳優として活躍していた。暖簾分けという言い方が正しいのかどうかは判らないが、数年のブランクを経て、晴れて自らの一家を構えることと相成った。

幅三間、奥行き二間の小さな空間ながら、袖幕もつけたまっとうな舞台である。
客電が消えると、舞台中央の白布に彼らが製作したビデオが投影される。タイトル、キャスト、スタッフのクレジット。これがイントロダクションである。そういえばこの手法はらせん劇場の十八番だった。

ナチュラリストを自称する三人組。男一人に二人の女。親分と呼ばれる男は雷が鳴るたびに失神する。子分の一人は新米で、まだ見習いといった風。

幕開けの台詞から察するに「ジョン・シルバー」へのオマージュかと思いきや、間もなく、親分はジョン・シルバーの友のオウムであることが判明する。
味の素あーやが演ずる読心術の使い手、一の子分の「ブンタ」はスズメ。グループに入った新人の「坊ちゃん」は、飼い主から逃げてきたインコである。

妙な動物たちの物語が展開する。エコロジーめいた言説があったり、急にメロドラマ調になったりするのだが、どうひねったところで典型的なやおいだ。

クラッカーをぱんッとはざして、驚いた親分は昏倒して眠ったままになってしまって、それでもって親分はジョン・シルバーを失った記憶にずーっと苦しんでいて、それで、えーと、えーと。
どういう話だったか?


鳥たちをその網の巣に引っかける女郎蜘蛛の役の女優が実に変てこりんで、そこそこ面白がったりもしたのだが、それにしてもこの芝居、後味がよろしくない。不快感を与えられたというのではない。何一つ観なかったような、そんな虚しさ。

何故ここには魂に響く言葉がないのだろうか。

観念の快楽よりも肉体の快楽が優先されている。観客を置き去りにして、演者だけが嬉々としている。では俳優たちに特権的な身体性があるかといえば、素寒貧な、全くの凡庸な肉体でしかない。

「ありのままのわたしたちを観てください」

こうした演劇が全盛の今般、生真面目に演劇を論じることはとてつもなく野暮なことのように思えてくる。

だがそれでも、これが演劇ではないと言い切ることは出来ない。腹立たしいことに。
どうも演劇の世界というのは「やったもの勝ち」というか、「やり逃げ」が堂々とまかり通ってしまうものらしい。
おそらく彼らには批評など必要ないはず。