ART CRITIC / CRITICAL ART #100 

Geoffry D. Hinton:  '40 Winks'


 ガレリ・ヴォワイヤンで行われた「ジェフリー・ディーン・ヒントン展」は、静岡に在住するニュージーランド人のアーティスト、G・D・ヒントンが三年にわたって創作してきた40点のバンド・ペインティングを一望するという、この一連の仕事の決算の意味も併せ持った作品展であった。
 「バンド・ペインティング」とは、ヒントンによる造語で、画布の表面を一本以上の色帯が平行して横断する、簡潔な構図の抽象絵画である。作品群はいくつかのグループに構成され、作品間の関係性を示唆するインスタレーションとして提示されている。

 会場では開期中、この種の現代美術の作品展には珍しい光景がみうけられた。抽象美術とはおよそ無縁と思われるような十代二十代の若者たちが続々と押しかけ、長時間にわたる鑑賞を行っていたのである。興味深いことに彼らは皆一様に、作品を理解しようという強い欲望に突き動かされていた。こうした現象は何に由来するのだろうか。バンド・ペインティングのどこが彼らの知的好奇心を刺激したのか、わたしにはまだよく判らないが、そこでは確かに彼らを魅了するような何かの力が働いていたのである。

 巷間に常識として広く流布する美術作品の鑑賞法は、「理解しようとする前に、まず感じること」である。作品の解釈をめぐる言辞は、作品の多様な表出を一元化するものとして排斥されてきたようにわたしには思える。いわく、「芸術は理屈じゃないよ」。すると芸術とは理が通らぬ、理不尽なものなのだろうか。そうかもしれないし、そうではないかもしれない。

 作者の感性だの感情だの、そうした個人の心的事象に共感・共鳴することが本当に可能なのだろうか。他人の歯の痛みが理解できなくても、心の痛みであれば理解できるのだろうか。ウィトゲンシュタインはそのことについて何と言っていたか。

 では、情感からではなく、「理」から生ずる芸術はどうなるのか。ヒントンのバンド・ペインティングはまさにその典型だからだ。

 今回の個展にあたってヒントンは『GREEN GLASS EYES』という論考を発表している。「バンド・ペインティング」についての序説、と副題がそえられたこの論文は、バンド・ペインティングを理論的に裏付けるものだ。大量の情報が圧縮された刺激的なテキストだが、現代美術家・白井嘉尚氏による翻訳もハードボイルド小説を思わせるクールな文体に仕上がり、これまた秀逸。多くの来廊者がテキストのコピーを求めていったというのもうなづける。

 ここでヒントンは「絵画のモダニズム」の再考を行っている。わたしは、絵画のモダニズムは印象派から始まり、抽象絵画を経て、抽象の極北ミニマリズムに至って自己消滅したのだと解釈している。反絵画として提示された絵画によって、絵画は息の根を止められた(と思われた)。絵画が色の塗られたキャンバスでありながら、その平面上に三次元的なイリュージョンを発生させているために、ただの物質以上の存在になるというパラドクスを捨て去った(と思われていた)のである。絵画とは何か、この問題を真摯に突き詰めていったが故に絵画を殺さなければならなかったモダニズムの帰結。だが、そうではない別のやり方はなかったのか。これがヒントンの出発点であったと思われる。

a)知的プロセスがそこに含まれるということ
b)この作品が絵画の特定の脈絡の中に存在するということ
c)逸話的意義のある美術以外の文脈を提供するということ

 論文の中では全く言及されていないが、ヒントンが超克すべき対象と措定していたのは間違いなくステラである。モダニズムに引導を渡し、絵画を殺した最初の芸術家がステラである以上、ヒントンはステラが歩んだのとは別の道を行かなければならない。

 この一連のペインティングに「バンド」という名を与えたのは、ステラのストライプとの差違を明示するためであろう。

 三次元的イリュージョンは絵画の固有性である。三次元的イリュージョンを発生させる装置は遠近法、描かれた形象、そして明暗法と色相である。抽象絵画は遠近法も形象も排することが可能だ。色相と明度を統合し、色彩による背景と前景が不用意に発生する事態も回避できる。三次元的イリュージョンの排除によって、絵画が内包する「物語」も取り除かれる。
 ここまではヒントンもステラと同じ道を辿ってきている。だがヒントンはここでふいに立ち止まってしまうのである。そして次のように自問する。
「目がすべて緑色のガラスでできているならば、そして白く見えるすべてが、本当は緑色ならば、より賢明であるのは誰なのか?」クライスト

 人間の知覚の曖昧さに着目するヒントンは、ネッカー・キューブのパラドクスに引き込まれる。正立方体に見えるネッカー・キューブには前景と背景の正しい関係というものがない。固定された遠近感が崩れてしまっている。視者はキューブを右上から見下ろしているのか、左下から見上げているのか判らない。他の角度からの視点もあり得るかも知れない。描かれたキューブの一側面が正面なのか背面なのかは、それを知覚する者の判断にゆだねられているのである。このことはウィトゲンシュタインが提起した「アヒルウサギ」の錯視とも連鎖している。見る者しだいでアヒルのようにもウサギのようにも見える図像がある。何故このような現象が引き起こされるのか。知覚の正当性を保証する根拠はない。
「それは認識されるが、他の何物かであるということも潜在的に残る」。事実などない、解釈だけが存在する、というニーチェの言葉が響く。
 更にヒントンはネッカー・キューブが提出する問題を思考する。そもそもネッカー・キューブは何故、立体に見えるのか。三次元的イリュージョンを発生させる絵画的仕掛けがないにもかかわらず、それは三次元に見える。
 ここで彼は、西洋絵画と東洋絵画の空間表現の相違を克服できるのではないかと想定する。ネッカー・キューブは西洋の奥行をもった透視図法(遠近法)とアジア文化の二次元的な等縮投影図を統合しているのではないかと考えたのである。
 西欧絵画のなかでも、キュビズムは固定された視点から解放されているが、分割された部分では依然として遠近法が有効である。キュビズムのような遠近法の複合では、わたしにはこのようには見えない、という事態が生じてくる。そこで実現されているのはあくまでも作者の視点なのである。鑑賞者は作者の「視る」欲望に共鳴することを要求される。それでは駄目だ。期待される絵画は、視者がわたしにはこのように見える、と確信的に宣言することが可能であり、なおかつそう見せるための強制力を持たないものでなければならない。そして自己言及的であってはならない。

「クレタ人は嘘つきだ、とクレタ人は言った」
「この絵画は絵画ではありません」

 このような命題は論理のループを産出する。閉鎖系の中で無限が生じているのだ。これこそがモダニズムが陥った奸策に他ならない。この地点でヒントンはステラと決別する。ステラが初期の作品を反絵画と定義しているのに対し、ヒントンはそれが絵画であることを自明と見なしているのである。

 ヒントンは再度、作品創作にあたっての規則を設定する。
1)それが絵画であること
2)平面性が保持されていること
3)制度化された遠近法を用いないこと

 ここで展開された理には、当然ながらネッカー・キューブという具体的な形象との照応関係がある。バンド・ペインティングは熟考された理の具現化であり、ネッカー・キューブの転写だ。つまり形式的には、バンド・ペインティングは、具象画家が風景や人物を描くのと同様に、具象絵画なのだ。拙文の始めに具象と書いたのはこういうことだ。

 何故わたしたちはこれらの物体を「絵画」だと認知してしまうのか。ヒントンが明言しているように、これは断じてデザインではないが、「他の何物かであるということも潜在的に残る」のではないか。何故その可能性を排除してしまうのか。絵画を制作するという作者の意志は、制作された物質のクオリティを問わず、それが絵画であることを保証するものなのだろうか。たぶんそうなのだろう。ウサギとして描かれた図像がアヒルとして認知されても、図像の絵画性は失われない。絵画性を保証するのは描かれた対象物ではない。しかしデザインと一線を画すためには描かれる対象は必要なのだ。それがバンド(質感を持った具象)だったのである。

 インスタレーションという展示方法も一種のトリックだ。作品は個別に制作されているから、作品間の関係性は作品自体とは無関係なはずだ。ヒントンは次のように言っている。
一連の線が平行して見えるとき、二つ一組の自動的なグルーピングが生ずる。例えば二本の線が実質的に無関係だったとしても、視者がそれを平行と認識した瞬間、二本の線は関連づけられるわけだ。そうした事態は視者の心の中、意識上で発生しているのである。バンド・ペインティングの平面上の画面構成はこのことを実証しているが、ヒントンはガレリ・ヴォワイヤンの三次元空間でも同様な検証を行っているのだ。そして鑑賞者たちは躊躇無く、作品間の連結を彼ら自身の意識内で実現したのである。

 これは「絵画」である。それを疑ってはならない。疑うことはわたしたちが世界を認識する規則を逸脱することになる。疑いを持つことを禁則とせよ。
 バンド・ペインティングは疑いようのない事象=疑うこと自体が不可能な事象の最終的な境界である。すなわち、バンド・ペインティングは知覚の現象として存在するのである。

 かくして三次元的イリュージョンは鑑賞者の知覚に内在しているという結論に達する。わたしたちの現実世界そのものがわたしたちの知覚作用の生産物だと。


 個展の最終日には静岡の先鋭的なミュージシャンによるインプロバイゼーションのデュオが行われた。バンド・ペインティングの豊饒な視覚空間、村越健のサックスと西村比呂行のギター/パーカッションが変幻自在に織りなす音響空間と、複雑な残響を発生させるガレリ・ヴォワイヤンの物理的空間との三位一体が絶妙な魔術空間を現出させ、わたしはアートの起源が呪術であることを鮮やかに再確認した。まさしくヴォワイヤン(幻視者)の名にふさわしい「場」であった。

 伝説を生みだすような奇蹟的な事象は常にどこかで起きている。だがそれがいつ、どこで起こるのか、誰にも判らない。秘儀は偶然にもその「場」に立ち会った者だけが理解できるのである。わたしは証人として報告する。


ジェフリー・ディーン・ヒントン展『40点のバンド・ペインティング』は、
1997年4月17日〜27日、静岡のガレリ・ヴォワイヤンで開催された。

文中、この色になっている箇所は『GREEN GLASS EYES』からの引用

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