ART CRITIC / CRITICAL ART #109 

演劇サークルsept第5回公演  「赤い鳥逃げた・・・」

 静岡大学の演劇サークルseptの公演に足を運ぶのは二度目である。前回の公演では演劇の作品性とは別の部分で大いに感ずるところがあった。言い方を変えるならば、演劇的には評価すべきものはないということになるのだが、実際そうなのだから仕方あるまい。
 学生劇団は、プロはもちろんアマチュア劇団とも一線を画す特殊な集団である。構成員の年齢差が狭いため(せいぜい五、六年)、世代間の齟齬や軋轢が生じにくく、集団内部の葛藤が希薄だ。個人の活動期間は卒業までと限定されているから、技芸の習熟、経験の蓄積がない。圧倒的な才能があればそんなものは糞くらえだが、そうそう天才にお目にかかれるものではない。また地域から遊離した場所で行われている創作には、地域の社会性はほとんど反映されない。では何を観ればよいのかというと、時代の気分とでも言うしかない。
 今回の公演では私は、劇団の**さんから三枚の招待券をいただいた。この劇団の礼儀正しさは好きだが、その反面、単独行の私としては「三枚」の数にいささか悩んだ。これは『客を連れてこい』ということか? いや、前回に引き続き250円の価格破壊的な観劇料ゆえ、招待券一枚=250円分ではかえって無礼と気を回したか?
 そう考えると「3」は絶妙な数字である。「2」ではご婦人同伴でどうぞという雰囲気であるし、「4」ではちと多い。『客、連れてこいよ』と受け取られる可能性がいかにも高い。で、ちょうどいいのがどれくらいか。やはり「3」なのである。
 それでも見栄っぱりの私としては、この招待券を使うのはかなりの勇気がいった。それほどseptの入場料金はいかがわしい。『250円の演劇を相手に批評だの演劇論だの小賢しいことを唱えてンじゃねェ』と居直っているようでもあるし、『私たちはこれをサークル活動として行っております、サークル活動を見物するのにふさわしい料金は250円です』と毅然とした態度で臨んでいるようでもある。
 とは言え、観劇料が安ければクズ演劇でもよしとするものでもない。チケットが高かろうが安かろうが、有料だろうと無料だろうと、駄目な演劇は駄目なのだ。

 septの公演を観た同じ日、私はもう一本の別の演劇を観た。静芸の公演が行われている静岡市民文化会館のチケット売場の前まできて、私は公演案内のハガキを忘れてしまったことに気づいた。私は普段、前売り券というものを買わない。明日をも知れぬ我が身の気ままを、わずかな差額で「予定アリ」と拘束するのが面白くないのだ。けれども公演の当日、券売所の窓口で劇団からの案内状をすっと差し出し、前売り扱いでチケットを買うのは、これはなかなか気分がよろしい。俺はすでにこの公演とはつながっていたンだぞ、そんな気分になるのだ。
 ささやかな楽しみを失いかけたその時、受付の女の子たちのわきに、演出の伊藤幸夫さんの姿を発見し、思わず駆け寄った。
「伊藤さん、すいません、あの、ぼく公演案内のハガキを忘れてしまって、それで・・・・」
「あっ、そうですか、どうぞどうぞ、どうぞ入って下さい」
「いや、そうじゃなくて、ぼくはその、前売券を・・・・」
「あ、判りました」と言って伊藤さんは私を会場内に通してくれると、券売所からチケットの半券(?)を持ってきてくれた。
「はい、これ、券です」
「あの、そういうことじゃないんで、・・・・あ、いえ、どうもすみません、ありがとうございます(なんだね、これじゃ俺はチケットの半券コレクターみたいじゃないか、よくいるもんな、映画の前売券とか美術展の入場券の半券を後生大事にとっとく奴)」
と、なんとも間抜けなことになってしまったのだが、とにかく伊藤さんはイイ人で、私は恐縮しながらご招待を受けたのだった。
 それでも芝居のほうはバカヤローだったが故、私は別稿でバカヤローと書いてしまった。駄目な演劇は駄目なのだ。

 septの公演はアイセル21(静岡市中央公民館)のホールで行われた。このホールは劇的創造性とはおよそかけ離れた白々とした空間である。追求された機能性は、表現が必要とする「空間のルーズさ」を打倒してしまっている。ここでは過剰な聖俗の存在は許容されない。いかなる異形もたちまち凡庸へと転位させ、すべての表象を平準化させる不気味さがある。
 ホールの左右の出入り口の非常灯には黒いビニール袋をかぶせてある。上演中に暗い客席の中で、その所在が目立たぬようにしているのだろう。こうした気くばりが肝心の舞台に全く反映していないのが悲劇だが、サークル活動と割り切ってしまえばそのハズシぶりもまたご愛敬である。
 客席は空席がめだつ。というよりほとんどが空席なのだ。しかしseptはそんなガラガラの客席を意に介さないようだ。諸劇団がどのような意図によって公演会場を選択しているのか、私にはその仕組みはよくは判らないが、普通は劇団の集客数というものも考慮されるのではないだろうか? 閑散とした客席よりも満員の観客の前で演じたほうが、俳優の演技にも熱が入るというものではないか?
 去年から私は静岡の学生劇団の公演をいくつか観てきた。「気流」「ドリームプロジェクト」「劇場ジャック」「いっちょまえ」「ベクターマニア」。いずれも視聴覚ホールで公演を行っている(昨今の学生は学外の場へ出て行くことにくったくがないのか?)。どの公演も満席であったためしはないが、会場の大きさを考慮すれば、適当な入場者数だったのだとは思う。それに比べるとseptの場合、前回公演会場のあざれあホールといい、今回のアイセル21ホールといい、キャパシティ(客席数)と入場者数の間に相当な開きがあるのだ。  彼らの真意は図りかねるにしても、観客がほとんどいない場で上演しなければならない演劇が存在する可能性はある。この演劇の上演に際しては、ホールのキャパシティに対し、観客数がその20%であること。千人収容のホールならば、観客数は二百人が適当である。三百人収容の会場においては、六十人の観客がふさわしい。そのように規定される演劇はありえるが、それがどんな演劇なのかは見当がつかない。

 1985年8月12日、御巣鷹山に全日空の国内便が墜落した。生存者は、わずか二名。スチュワーデスと、乗客の幼い少女K子さんである。
 この事故に関しては、当初より妙な噂がつきまとった。K子さんが証言していることだが、墜落直後、まだ暗いうちにライトを持った大きな人がやってきて、しばらくしてから立ち去ったという。救援の自衛隊が到着するはるか以前に、いったい何者が現場に現れたのか。少女の発言は、重傷を負いショックで意識が朦朧としていたために見た幻覚である、と黙殺された。だが、自衛隊の活動が異常に遅れていたことにからめ、在日米軍が事故状況の調査にいちはやく動いたのだ、という説がある。
 さらに、事故直後、御巣鷹山周辺に発生する大気の乱流に乗って大量の紙幣が事故現場の上空を舞っているのを、マスコミや関係者が目撃していたという情報と、いまだに身元が判明しない遺体が一体あるのだというこれまた噂でしかない話が結合し、墜落した便にはあのグリコ森永事件の犯人=身元不明の犠牲者が乗り合わせていたのだという驚くべき説話が作り出された。この推理は犠牲者のリストに森永の重役の名があったという風説によって補完される。
 85年の悲惨な事故の少し前、日本の航空史に残るもうひとつの事件が起きている。日航の機長Kがエンジンを逆噴射させ、羽田沖に機体を墜落させた事件だ。機長の異常行動を察した副操縦士が発した言葉は、当時の流行語にもなったはずだが、もはや私の記憶にはない。  『赤い鳥逃げた・・・』は、この二つの飛行機事故をネタにしている。

 夜の鳥が鳴くような、奇妙な笛のような、ある種の不安感をかきたてる効果音が終始とぎれることなく流れ続ける。台本に指定されている演出だろうか。秀逸である。だがことによるとこの音は、たんなるPAのノイズかもしれない。たぶんそうなのだろう。  妙に薄暗い照明がなんともわびしい。しかも俳優たちは相変わらずライトの当たりから外れた位置で演技をする。表情など見えようが見えまいがおかまいなし。
 場の気分を盛り上げるだけのために流されるポップミュージック(BGM)。安直なトレンディドラマにさも似たり。もちろんBGMが功を奏する場合もある。劇の終盤近く、ブルーのホリゾントの前に二人のスチュワーデスが、直立不動の姿勢でそれぞれのモノローグを語るシーン。パッヘルベルのカノンが流れる中の二人の台詞は、おそらく事故調査報告書の証言である。台詞を喋るでも語るでもなく、ただ読むのである。このように演技を作らない場面は悪くない。といってもこの演出は小劇場演劇のお約束のようなもので、モノクロームのホリゾント、地あかりなしのスポットライト、BGMにカノンを流して台詞を読めば、文面が橋本龍太郎の所信演説でも通信販売のカタログでも無意味な数字の羅列でも、あーら不思議、それなりにサマになってしまうのである。
 あからさまに笑いを意識したシーンは一向に笑えない。これまた小劇場演劇の十八番、パロディでヒットをねらうが、空転するばかりだ。その責任の大半は演技者の拙さにあるにしても、どうも近年、パロディが笑いとつながらなくなってきていることも一因だと思う。それはおそらく、パロディという手法から批評性が減衰しているためで、創り手はパロディを客の笑いを誘う装置としかとらえず、また仮にそこに批評性があったとしても、受け手がそれを読み込む力を失っている現状があるのだ。
 思えば96年のNHK大河ドラマ「秀吉」で竹中直人は、アングラ演劇の演技術や身体性をパロディ化していたが、誰もそれを笑わなかった。どなりちらし唾をまき散らす懐かしのアングラ演劇的演技は、NHKに対しても本家のアングラ演劇に対しても強烈な批評性を持っていた。そんな狡猾なパロディが、こともあろうに体当たりの熱演として賞賛されていったのは、私には奇妙なことだった。

 さて、『赤い鳥逃げた・・・』だが、何故septはこのテキストを選択したのだろうか。彼らは八十年代の二つの航空機事故を同時代体験として記憶しているのか? この物語を同時代的だとして共有できるのか?
 物語は、マスコミによって奇蹟の生存者、国民的なヒロインの役割を与えられるK子さんを支軸に、現代日本のコマーシャル業界、ひいてはテレビメディア全体の欺瞞性を浮かび上がらせようとしていると思われる。
 たしかに日本の戦後、昭和末期のメディアは、市井の市民を話題性のある事件のイコンへとかつぎ上げることを繰り返し、すっかり堕落してしまった。消費の回転率を高めるためには、消耗の速度を高めてやればよい。時代のイコンもまたしかり。ならばイコンであること、あり続けることの玄人であるスターよりも、イコンであることのアマチュア、無名の市民のほうが、容易に消費され尽くされる。イコンの寿命は短くなる一方だ。国民のシンボルとして持続するようなイコンは、もはやおよびではない。ひばりも寅さんも勝新も、死して後のマスコミのバカ騒ぎを予期していたであろうか? もちろん国民の最大のイコンは疑いなく昭和天皇だったのだが。
 それはさておき、この物語の中で、K子さんにしてもK機長にしても何故実名なのか。何故その必要があるのだろう。K子さんもK機長も決して過去の人間ではない。彼らの歴史は現在もこの日本のどこかで進行していて、書きつがれているのである。
 なにも私は人権とかプライバシーとか、そんな良識を振りかざすつもりはない。劇世界のキャラクターに現実のモデルがいるのはよくあることだ。紀元前の時代から演劇はそのようにして書かれてきた。問題は『赤い鳥逃げた・・・』に固有名詞で登場する人物たちに、作者自身はなんの内実も与えてはいないということなのだ。
 創造性に満ちた劇世界を構築できぬ劇作家は、現実の個人の私的歴史や個人の私的物語を収奪することで作品にリアリティを与えようとする。実名であることの重み、モデル自体の持つ力に物語が依存してしまうこのような作劇法は品性下劣であり、このような演劇は卑劣であると私は思う。その点では、山崎哲、お前も同類だ。
 私は舞台を観ているうちに、この劇の作者が嫌いになった。この演劇こそ、ワイドショーそのものである。はい、そうです、この劇がまさにワイドショーのパロディなんです、それが目的だったんです、と言われてしまえばそれまでだが、それでもなお、他人の血を流すことで人目を引くことはないと思うよ。このような作劇法は品性下劣であり・・・・。

 演劇など観ようと思わない、現実のほうが面白いから、と言う人たちがいる。これは「演劇よりも現実のほうが面白いものである」ということを意味してはいない。「現実よりも面白い演劇」が、いま発見できないという現状認識である。たんに演劇の衰弱、物語の衰弱を言いあらわしているにすぎない。そして衰弱を加速させているのは、「事実は小説より奇なり」と居直り、想像力を放棄した、物語の創り手たちである。

 ラストシーン、上下の袖から舞台に紙飛行機がとばされる。放物線を描いてポトポトと舞台上に落下する白い紙飛行機。ステージの広さに比して、その質感はあまりにも無惨。それはこの漠としたホールに散在する、私たち観客の似姿である。
 あの素寒貧な舞台すべてを、何百何千もの紙飛行機で埋め尽くしてくれていたら。


演劇サークルsept第5回公演『赤い鳥逃げた・・・』は、
1997年6月7日静岡・アイセル21ホールで上演された。
作・大橋泰彦、演出・川嶋千里