ART CRITIC / CRITICAL ART #110 

劇団静芸こども劇場公演  「トム・ソーヤーのぼうけん」
新しい言葉や物語はいったいどこにあるのだろう?      
どこにいけば私たちはそれらを見つけることができるのだろう?
───────村上春樹
 村上春樹はその著書『アンダーグラウンド』では、インタビュアーとして徹底的に他人の物語の聞き手であり続ける。物語の職業的作者である自らの主体を排し、語られた物語をいささかの粉飾もなく提示する。だがしかし、これはドキュメンタリーではない。村上の恣意的なものではないにしても、彼の私的な構成物である。官公庁職員の証言はまったく得られていないことからも明らかなように、リサーチは抽出サンプルに偏りがあれば、調査結果にも特定の傾向が現れてしまう。少なくとも、村上のインタビューを受けた人々はモノガタル意志を持っていた。彼らは「物語」を所有する者たちだったのである。
 だからこの書物によって地下鉄サリン事件の真実が浮かび上がってくるわけではない。被害者たちが語っているのは個別の体験、個別の物語だからだ。ニーチェが言うように。事実などない。解釈だけが存在するのだ。

 それにしてもここに登場する市井の人々の劇的な運命には驚嘆する。皆が皆、運命のいたずらとしか言いようのない偶然の連鎖によって事件に遭遇する。バスがたまたま二分早く来すぎたために、普段乗る電車よりも一本前の「サリン電車」に乗り合わせてしまったサラリーマン。かと思えば、朝、何故か会社に行きたくないという気持ちになってしまったため支度に手間取り、いつもよりも一台遅い電車に乗ったために命拾いしたOLもいる。彼女は毎日、まさにサリンが置かれたその車両に乗って通勤していたのである。被害者の一人には、オウム幹部の井上と高校で同級生だったという若者もいる。井上とは最初からそりがあわなかったと言うこの若者からは知的な印象は受けないが、その彼が、井上よ、松本智津夫ときっちり対決しろ、僕はそれを楽しみにしている、と発言するくだりなどは圧巻である。
 オウム信者たちが麻原の物語に魅せられ、無条件に麻原の自我が紡ぎ出すフィクショナルな世界像を受け入れていったように、村上はこのインタビューを通じて、サリン被害者たちの物語に魅せられてしまったようにみえる。おそらくそれは確信犯的になされたことであろう。村上は是が非でもそうせねばならなかった。物語を紡ぎ出す者、作家として、「物語」を「こちら側」へ奪還せねばならなかった。たとえそれが擬態であったとしても。

 若者たちはレミングのごとく「あちら側」の物語へと駆け込んでゆく。それは「あちら側」の物語が優れているからでも魅力的だからでもない。たんに彼らが「こちら側」の物語を見失ってしまっただけなのだ。「こちら側」の物語はいささかも衰弱することなく健在である。問題は、誰がそれを発見するかだ。

 プリンストン大学でのシンポジウムで大江健三郎はこう語っている。「オウム真理教は宗教的、文学的想像力から無縁な不毛な教団だった」。彼の分析は間違っている。村上はオウムが過剰な物語性に自ら飲み込まれていったことを見抜いたからこそ、アンダーグラウンドな文学的戦いに参入したのである。遅ればせながら。


 さて、劇団静芸の「トム・ソーヤーのぼうけん」を観たその日、ぼくは朝から一日中怒っていた。原因は週刊誌で読んだほんの短い記述である。神戸で惨殺された少年は、「なかよし学級」に通う知的障害児だった。ぼくはこの情報を知って、一気に頭に血が上り、犯人への激しい憎悪にかられた。と同時に、ぼく自身に対し腹だたしく口惜しかった。何故ぼくはあの時、最初に事件を知った時点でかくのごとく激怒しなかったのか。この惨劇を興味本位で傍観していたのではなかったか。ぼくは、少年の知的障害という属性によって事件への関心の質を変化させる、自分の差別性を恥じた。
 ぼくは始めからこの物語に徹底抗戦すべきだったのだ。
 ぼくが静芸の芝居に強い憤りを感じたのは、そのせいもあったのだと思う。

 「トム・ソーヤーのぼうけん」は、「こども劇場」と銘打っているのだから、主として子供を対象観客として創られた演劇なのだろう。作品はミュージカル風に仕立てられ、台詞や状況説明はミュージカルスコアとして歌唱される。単なる挿入歌ではない。形式的には完全にミュージカルである。
何故、ミュージカルなのか? 何故、静芸が?
昨今の流行に相乗りしているようにしか見えないのだが、現在このミュージカルという形式が、子供たちに最上のアピールをしているのは確かなようだ。
 そのことはさておき、彼らはこの物語が子供たちに及ぼす心理的な影響が判っているのだろうか。演劇の魔術的な効果に対して、あまりにも不用心だ。ぼくは疑問に思っている。そもそも彼ら静芸は、演劇が、表現が世界を変える力があるとは信じていないのではないか。いま・ここで静芸が「トム・ソーヤーのぼうけん」を上演することで、いま諫早湾の水門は上がらないかもしれないが、目の前の観客一人の精神と人生は、いま・ここで容易に変えてしまうことが出来るのだ。
 ぼくは演劇の力をいささかも疑ってはいない。いや、より正しく言うならば、ぼくは演劇の持つ「物語の力」を信じているのだ。

 静芸が提示したこの物語には、非常に邪悪なもの、そうあるべきではないような形、覗いてはならない亀裂がある。健全な市民社会が崩れてゆくそのさまに気づかぬ、知的市民、良心的市民の異様な姿が逆照射される。「トム・ソーヤーのぼうけん」は極めて深刻な問題を孕んでいるのだ。

 詳細に分析する。

 第一幕の半ばでトム・ソーヤー、ハック、シッドの三人の少年たちは、偶然、墓地で殺人を目撃してしまう。犯人の名はインジャン・ジョー、殺されたのは町の医師。怨恨のあげくの犯行である。ジョーはポッター老人に罪をきせようとする。ジョーは冷酷無比、極悪非道な人物だ。二幕では知り合いの女への復讐を企てる。−殺すンじゃ面白くねェ。女にとって一番辛い目にあわせてやる−。曰く、鼻を切り落として耳を刻んでやる。
 驚いたね、どうも。ギニーピッグ(古すぎるか?)顔負けだね。何故このような「鬼畜な台詞」が、客席に座る大勢の子供たちの前で吐かれなければならないのか。しかもこの具体性は尋常ではない。ジョーの計画はトムの通報によって事なきを得るのだから、ジョーがたくらんだ復讐がここまで血生臭いものである理由は全くない。だが脚本がこうであり、静芸がこう演じた以上、こうであらねばならなかったのだ。確信犯的に「残虐な台詞」が吐かれたのだ。−殺すンじゃ面白くねェ。あの女の寝室に101匹のゴキブリを放り込んでやる−、というような台詞では、静芸が求めるものは表現できなかったらしい。

「さらに犯人の残虐性を物語っているのは、目です。目玉が完全にくりぬかれていました。カッターで切ったような傷はない。おそらくスプーンのようなものでくりぬいたんじゃないでしょうか。目玉はまだ発見されていません」
───────週刊文春 1997年6月12日号

 ところで、ぼくは一幕が終わってパンフレットを読むまでは、ジョーは「インディアン・ジョー」だとばかり思っていた。まぎらわしい役名だし、彼の衣装からして短絡的にインディアンを想起させるような代物なのだ。殺人鬼=悪者=インディアン、なんとも貧しい連想が機能している。だが、メディアが提供する物語や民間伝承の説話が、そのようなイメージの連鎖を定着させてきたのは間違いない。またこの舞台も、意図的にインジャン・ジョーをインディアンだと思わせようとしているふしがある。物語の中でほとんど唯一の悪人であるインジャン・ジョーは、劇世界の構成上のマイノリティである。インディアンはアメリカにおける現実のマイノリティであるから、両者はたやすく連結する。こうした少数者に特殊性を与える作劇法はあまりに安直なのではないか。
 ポッター老人にしても、パンフレットにはわざわざスペイン人と但し書きがしてある。どうにもこのあたりは胡散臭い。

 殺人現場に戻ろう。目撃者であるトムたちは、このことを口外するまいと約束を交わし、誓いの血判を押す。秘密の共有と口止め。曰く、インジャン・ジョーは恐ろしい奴だから、もしもぼくたちが喋ったら、あいつはぼくたちを殺すだろう。
 目の前でおきた殺人に対するトムたちの反応は、暗澹とするほどうすら寒いものがある。人ひとりが殺される状況に際し、子供らは自己保身しか考えていない。これが「わんぱく者」のあるべき姿なのか。
 町の教会では住民たちが集まって、涙ながらにトムたちの葬儀をあげている。三人が行方不明になっていたうえ、空のボートが発見されたため、川に落ちて溺れてしまったと勘違いされたのである。嘆き悲しみ、過剰なまでに感情移入する人々。医師の死に比して、トムたちの死ははるかに重い。
 主役の死は他の登場人物の心を揺り動かす重要な事件だが、ワンシーン、殺されるためだけに登場させられる人物の死は、無視しても構わぬとでも言うのか。脇役の死はなんとあっけなく、そしてたちまち物語の進行から忘れ去られてゆくものなのだろうか。このような物語が子供たちを対象に演じられる事態を、ぼくは憂慮する。

 葬式が行われている最中に、トムたちはあっけらかんととび込んでくる。場面は一転して陽気なお祭り騒ぎに。そこへ町の保安官が現れ、ポッター老人は殺人犯として連行されそうになる(その場にはインジャン・ジョーもいる)。トムたちは勇気を出して、インジャン・ジョーを告発する。ここはトムたちの勇気と正義感を賞賛する場面なのであろう。だが子供たちの行動は、ポッター老人の冤罪をはらすことが目的であり、殺人の告発を直接的に意図したものではないのである。つまりここでも殺人自体は問題にされてはいない。
 ジョーは逃亡する。第二幕のヤマ場は、トムの洞窟での冒険。トムとガールフレンドのベッキーは、インジャン・ジョーが洞窟に隠したお宝を探索しているうちに迷ってしまう。その洞窟内でトムはばったりジョーと出くわし、最後の対決とあいなる。ジョーはトムを殺害しようとする。崖っぷちに追いつめられるトム。まさに危機一髪のその時、飛び出したガールフレンドは、なんの躊躇もなくインジャン・ジョーを崖から突き落とす。

 たぶん彼女のとった態度は正しいのだ。それ以外にとるべき行動がなかった故、彼女はためらわなかった。選択肢は一つしかなかったのだ。しかし、それでも人は考え、苦悩するべきだ。いまや彼女は殺人者なのだ。彼女が望もうと望むまいと。正当化される殺人などあるべきではない。何故、彼女が人を殺さなければならなかったのか、彼女は、子供たちは考えるべきだ。何故、インジャン・ジョーが人を殺すにいたったのか、彼女は、子供たちは考えるべきだ。
 舞台上の子供たちはそのようには考えない。他者への共感も世界に対する想像力も、全く欠落している。ボクたちは勝った、ボクたちは勝利したんだ、と無邪気にはしゃぐ子供たち。
 何なんだよ、お前たちは、人殺しなんだぞ、お前らは!

 「トム・ソーヤーのぼうけん」の台本を書いた(パンフレットには脚色と記されているが)小原輝夫氏は、教育者だったと記憶している。長年にわたって子供たちを指導してきた人物が何故。けれどもこれは小原氏個人ばかりの責任ではない。創作者たちが誰一人として、この物語の欠陥に気づけなかったという事実。前回の試演会では従軍慰安婦問題に積極的にコミットしていた静芸だ。ぼくはその良識は信頼するに足るものだと思っている。だからこそ、これは重大な問題なのだ。社会的、政治的、文化的な歪みに敏感なはずの彼らでさえ、物語の異常性には異常に鈍感だったのだ(あるいはもともとそういう体質の劇団だったのか?)。まして一般大衆と呼ばれるような、ぼくたちの感覚は?
 そこで先の記述にもどるのである。神戸の惨劇。何故ぼくはあの時、最初に事件を知った時点でかくのごとく激怒しなかったのか。だからこそぼくは、遅ればせながらも今度こそは、始めからこの物語に徹底抗戦するのだ。

ΩΩΩΩΩΩΩΩΩΩ


 ぼくは考える。ぼくはどんな物語と出会ってきただろうか。ぼくはどんな物語に親しんできただろうか。それはきっとこんな物語だったはずだ。

断崖絶壁の対決。絶体絶命の危機。トムに向かって殺人鬼がナイフを振り上げたまさにその時、後を追ってきたトムのガールフレンド、ベッキーが、渾身の悲鳴をあげる。いっせいに羽ばたく洞窟のコウモリ。ふいの出来事に気をとられた殺人鬼は、足を滑らせ崖から転落。だがその瞬間、トムは殺人鬼が体に巻いていたロープの端をつかんでいた。殺人鬼はトムが必死の力をこめて握る命綱で宙づりになる。子供の力では殺人鬼の体重は支えきれない。トムの体はずるずると崖っぷちへ引き寄せられてゆく。このままでは二人もろとも落ちてしまう。トムはロープを離すのか。

トム「ベッキー、手伝って、殺人鬼を助けるんだ!」
ベッキー「うん、判った」

ベッキーはためらわずにトムを手伝い、ロープを引っ張る。

殺人鬼「トム、何故俺を助ける? 俺はお前を殺そうとしているんだぞ」
トム「うるさい、ぼくだって判らないよ!」
殺人鬼「そうかい、じゃア、早く俺を引き上げてくれ、そうしたらお前たち二人をあっという間に殺してやる。これはなトム、俺の予言だ」
ベッキー「トム!」
トム「気にするなベッキー、こいつの言うことなんて聞くんじゃない。先のことなんてぼくたちには判らないんだ。でも今ぼくたちがしたいことは判ってる。こいつを助けることだ」
ベッキー「ママがいつも言ってるわ、トムは後先の事を考えないって」
トム「へっちゃらさ、ぼくは子供だもの。子供は後先を考えないものなんだ。いいかい、引っ張るよ」
ベッキー「ええ」

殺人鬼は少しづつ引き上げられる。

殺人鬼「へっ、お前は本当に甘ちゃんだぜ、トム。そんなことじゃ、俺みたいな立派な大人にはなれねェなァ」

殺人鬼はトムを刺そうとしたそのナイフで、自らを支えているロープを切断する。

殺人鬼「あばよ、トム」

断崖の闇の底へ墜落してゆく殺人鬼。呆然とする子供たち。

トム「何故、どうして? あいつは他人の命を粗末にする奴だから、自分の命だってどうでもよかったのかい? それともあいつはもしかしたら、ぼくたちが命の恩人でもぼくたちを殺してしまうような心の病気で、本当はそんなことをしたくないから自分で自分を殺してしまったのかい? ねえ、ベッキー、どうしてなんだ」
ベッキー「わたしにも判らないわトム。でも判らないのは、それはまだわたしたちが子供だからよ。わたしたちが大人になれば、たぶん判るときが来るんだと思う」
トム「たぶん?」
ベッキー「きっと。きっと判るわ」
トム「そうだね、きっと判るはずだね。ぼくたちがいつか、大人になれば・・・・」

 こうして書いていることが嫌みなことは百も承知だ。それでもぼくは別の物語を綴らずにはいられない。無自覚に演じられていた物語の、晴れ渡った青空のような邪悪さにのみこまれないためにも。


劇団静芸こども劇場公演『トムソーヤーのぼうけん』は、
1997年6月7日静岡・静岡市民文化会館中ホールで上演された。
原作・マーク・トウェイン、脚色・小原輝夫、演出・伊藤幸夫
第23回静岡市民文化祭参加作品。

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