ART CRITIC / CRITICAL ART #111 

松浦肇 個展  1997年7月−8月 静岡・ういんな


 松浦肇の写真には精霊が写っている。偶然ではなく、どの写真にも写っている。松浦は人間の眼には見えぬ存在を写真に撮る。それは不可視の事象であるから、なおも眼には見えないままである。けれども私たちの知覚は、その存在を確かに感じ取っている。


 これが本稿の結論であり、以下はここに到るまでの道筋である。

 写真の根幹は何だろうか。私はそれはフィルムだと考えている。人間の眼と同じ構造を持つカメラ、画家のキャンバスと同じ役割を持つ印画紙、そこに介在するフィルムは記憶装置としての脳の機能を担っているからだ。
 今から150年程前に誕生した写真は、それまでの絵画から「記録性」という性質を奪い取った。写真の発明以前は、現前する事象の視覚的な記録・転写は絵画が引き受けていたのである。多くの肖像画家や風景画家が、写真師へと転職した。以来、絵画は現前せざる事象を現出させるという真に創造的で困難な道を歩むことになる。すなわち抽象絵画が発見されるのである。
 現在、写真もまた、かつて絵画が被った困難な局面に立たされている。デジタルカメラの登場により、写真の「記録性」はもはや過去のものとなりつつある。映像は0と1との磁気データに変換され、その複製技術あるいは保存の精度たるや写真とは比べものにならぬほど高い。容易に変質するフィルムや印画紙は、早々に消えゆく運命にあると宣告されたようなものだ。しかしそれでも写真はなくなりはしないだろう。危機に瀕しているのはフィルムという古いメディア−聖なる金属、水銀を用いた霊媒(メディウム)−であって、写真という制度そのものではないからだ。それは今日の写真ブームをみれば明らかである。そしてブームの背景にはプリクラや、インターネットで提供される画像情報といった新しい写真媒体の登場がある。デジタルカメラの編集機能は、フィルム上の固定された画像順列を解放した。デジタル映像の技術革新が、写真の形式を更新しているのである。
 とはいえ大量生産され消費されている写真のほとんどが「私写真」であるのも、まぎれもない事実だ。「私写真」は「私」が視た事象の転写であり、「私」がそれを視た(そこに居た)生活感覚のアリバイである。その機能はまさに「記録」以外の何物でもない。仮にそれも表現であるとするならば、表現されているのは撮影者の「私自身」だ。
 複製技術がもたらしたものは芸術の複製ではない。複製技術が再生産しているのは「私性」なのである。
 では「記録性」から解放された新しい写真は、もしくは「フィルムと印画紙」の写真のサバイバルはいかにして可能なのだろうか?
 松浦肇の写真群は、この問いかけへの数少ない回答例である。

 松浦の写真にはノスタルジーが色濃く漂う。ノスタルジーの感情が生起するには、知覚された事象、この場合は映像と、それに対応する私たちの内的な記憶が存在しなければならない。例えばその映像が既に失われて久しい田園風景であれば、そうした環境に育った原体験を持つ者がノスタルジーを誘引されることは容易に想像がつく。ある事象が喪失されているという事実と、その事象に対する強い記憶がノスタルジーを惹起するからだ。
 では松浦の写真に現出した何がノスタルジーを誘引しているかというと、それがよく判らないのである。私たちは松浦の写真の前で立ち止まり、そこに写っているものの正体を見極めなければならない。

 昔から写真は人々に、家族の姿を記録する一方で、見たこともない驚異の映像を提供してきた。それは異国の風景であったり、戦場や飢餓地域の悲惨であったり、事故の決定的瞬間であったり、あるいは微細な昆虫の複眼だったりした。シュールレアリストや幻想派の画家たちも驚異の映像を描いてはいたが、彼らの絵画では、「いままで見る機会がなかった見たことのない現実」という錯覚を引き起こすことは出来なかった。鑑賞者はそれが絵画の中でしか起こり得ないことであると判っていたのである。
 芸術家はしばしば幻視者と呼ばれ、私たち一般の普通人には見えないものを視る異能者だとされた。けれどもそれが彼だけにしか見えぬビジョンであるなら、私たちがそれを彼の絵画で見ることには何の意味があるのだろう。そもそも彼、画家は、本当にそのようなビジョンを見たのだろうか。それを証明する手だてはなかった。
 一方、写真は、カメラを手にした者が視た現前する事象を、現実に存在する世界を、その者が視たように記録する。それはいかにも現実の転写のように思える。人間の眼のメカニズムは皆同じであるから、撮影者が視た映像は、誰にとっても了解可能な映像だと考えていい。そしてカメラも人間の眼と同じ光学的メカニズムを持っているという安心があるからこそ、私たちはマースパスファインダーが送ってきた画像を見て、それが現実の火星表面だと納得しもする。
 つまりこの世界のありとあらゆるすべてのカメラは、私たちの眼の代理人としての役割を果たしているのである。写真映像のリアリティを保証しているものは、映像の内容ではなく、写真という制度への信頼なのだ。
 現実の風景は撮影者がのぞくカメラのアングルとフレーミングによって、フィルムのひとコマに固定される。そしてその写真を私たちが見た時、撮影者の眼と私たちの眼は重なりあう。ボルネオ奥地のジャングルで撮影された蝶群の映像は驚異的だが、もし私たちがそこにいれば、当然私たちの眼にも写真のような光景が映る。どこかの大統領が暗殺された瞬間の写真が衝撃的であったとしても、たまたま私たちがその場に居合わせれば、それは私たちの眼も見たはずの事象なのである。
 もちろん実際には写真家のように世界を眺めることは、私たちには出来ない。視ることは容易ではない。だが写真家はそれが自分にしか見えない事象だとは言わないだろう。写真家は得体の知れぬ観念を相手にしているわけではないのだ。

 ところで、1935年には次のような発言があった。
「映画は、その本当の意味を、その現実的な可能性を、まだ把握していない。・・・・この可能性は、ごく自然な手段と無類の説得力をもって、妖精のようなもの、不可思議なもの、超自然的なものを表現する映画独自の能力のなかにひそんでいる」
 映画と写真では事情はいささか異なるが、現代のデジタル技術が提供するビジョンは概ね、上記のようなアイデアの実現に加担している。それは、そこに存在しないものをあたかも存在しているように「ごく自然な手段と無類の説得力をもって見せる」、トリッキーなものである。同じデジタル技術の産物でありながら、ビデオドラッグのようなフラクタル映像が持つある種のいかがわしさに対して、「ジュラシック・パーク」や「T2」のCGが実に健全に思えるのは、もしそれが、例えば恐龍がそこに存在すれば、それは当然そのように見えるだろうという了解があるからだ。提供された映像がいかに驚異的な、あるいは異常なものであろうと、それが人間の眼の光学的なメカニズムを裏切らぬ「ごく自然な」ものであれば、とりあえず私たちは安心でいられる。
 ところがである、松浦の写真は、私たちの眼の光学的メカニズムが必然的に私たちに与える現実世界の映像から、逸脱しているのである。
 松浦の被写体は日常の事象である。風景であったり、静物であったり、人物であったりする(即ち、ノスタルジーを誘発するような機能を持つものではない)。被写体には私たちの「生活感覚」を揺るがすような異形性は微塵もない。だが赤外線フィルムによって立ち上がってきた写真映像は、私たちの眼では絶対にそのように見ることが出来ない映像なのだ。空の明度は暗く沈み、植物の葉の緑が白く発光する。そこに写し取られた光は、人間の可視範囲を越えているのである。
 私は松浦の写真の前で立ち止まり、考え込んでしまうのだ。いったい何者が世界をこのように眺めているのだろうか。スズメやマルハナバチやクローン羊のドリーには、風景はこんなふうに見えているのだろうか。この映像は誰によって見られたものなのか。
 常識的に考えれば、写真の映像は最初、撮影者によって見られている。ただしそれは写真ではなく、ファインダーの内部の映像として体験されているが、写真が撮影者の「既視」の上に成り立っていることは間違いない。けれども松浦の写真では、この通常の手続きが解体されている。カメラを覗く松浦自身の眼にも、彼の写真のような事象映像は見えていないのである。フィルムが現像され、印画紙にプリントされて初めて、松浦もそこになにが映っているのかを理解する。これはゆゆしき事態だ。松浦は、私たちの前に確かに存在し、私たちが確かに見ているにもかかわらず、光学的にそのように見ることが不可能な事象の形容を写真にしているのである。だが松浦はただやみくもにシャッターを切っているわけではない。偶然に撮影された映像では断じてない。被写体は的確に選択されている。人間の視覚とは異なる視覚を持つ者たちが、目前の風景をどのような映像としてとらえているかを、松浦は知っているのである。知覚できずとも、映像を予測しているのだ。それを可能にしているのが天賦の才もさることながら、写真家としての経験と技術に他ならない。
 写真の中でしか視ることが出来ない事象を写し撮った写真、そのような写真を私たちは一般に心霊写真と呼んでいるのである。

 松浦のカメラは視えないものを視ている。それは決して幻影ではない。私たちの視覚能力は限定されているため、松浦の被写体はそこに存在し、私たちはそれを視ているのに、それは私たちの視覚上には存在できないのである。その不可視の事象こそが「アウラ」であり、いま写真芸術から失われつつあるもの、損なわれつつあるものなのだ。
 私は松浦の写真の前で立ち止まる。何がノスタルジーを誘引しているのか? きっとこれはノスタルジーとは別種のものなのだ。私(たち)の意識の奥底に沈潜した「何か」が松浦の写真が放つアウラと連結し、この二者のつながりを私(たち)はノスタルジーと錯覚しているのだろう。
 では、その「何か」とは? 私たちの内部にからくも残存している「見えないものを視る力」である。松浦の写真は私たちの誰もが持っていた幻視の力をを呼び覚ましている。私ならばその力を「物語」と呼ぶ。


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