ART CRITIC / CRITICAL ART #121 

梶田まりあ 神々の黄昏、舞踏手の憧れ


 1997年の夏の終わりに、子供たちにダンスや歌や演技を教えるミュージカルスクールの発表会が静岡で行われた。対象とされた観衆は、ミュージカルスクールの生徒たちの親類縁者であったが、その会で、二十代のバレリーナ、梶田まりあがゲストとしてソロダンスを舞った。
 わたしは生まれて初めてバレエを観た。それがクラッシックバレエなのかモダンバレエなのか、わたしは知らないが、とにかく「糸を紡ぐ女」というタイトル(だったと思う)の、五分ほどのごく短い、梶田まりあの舞踏作品を観たのだった。
 その数日前のことである。わたしは日本平の舞台芸術公園で行われた、フランスの舞踊団とSPAC舞踊団の合同公演を観た。彼らの創造した舞台は叙情性と官能に満ちた実に素晴らしいものであった。けれども、わたしの見解は次のようなものだった。

叙情はあるが哲学がない。

 人を驚嘆させ、感服させはするが、魂を震撼とさせる感動がないのである。発表会で踊る子供たちを観ていても、わたしは同様な思いを抱いた。高度な芸術性を保持する舞踊団とミュージカルスクールの発表会を並置するのは非常識だろうか? わたしはそうは思わない。表出された表現は常に表層でしかありえないのだ。質的にどれほどの差があっても、それらは同じようにこの世界に存在する。
 もちろん何をもって感動とするかは人さまざまだ。愛らしさや美しさで心が揺れることを感動と考える向きもあるだろう。当然ながら叙情こそが感動を呼ぶのだという意見もある。しかしわたしにとって感動とは、表現に潜在する哲学の強度に出会った手応えなのである。

 わたしが求めるものはダンスという領域とは縁がないのかもしれない、そう思い始めていた矢先、梶田まりあの舞踏がダンスに対するわたしの先入観を一掃した。
 この五分間がほんの手すさびなのか渾身の舞踏なのか、わたしには判らない。もしもこれが軽いお遊びであったなら、賛辞を送られることは彼女にしてみればむしろ不本意なことだろう。だが事実、わたしはこれほどまでにミューズに愛される踊り手が、この地方都市に、わたしと同時代に呼吸をしていることに心底驚愕したのである。

 バレエは舞台に独り座す梶田が糸を紡ぐ仕草から始まった。静謐にして優美な動きが、バレエを産み落とした両親の一方は、パントマイムであったのだろうと確信させる。ひとつひとつのステップが、高所に張られた一本の綱を渡って行くかのようであった。
 舞踏手が片足で屹立する。つまさき立ちする瞬間、彼女は十数センチ、天空へと向かう。そのほんのわずかな距離が、かくも深い感銘をあたえるとは。遠い昔、人々の意識の内部に「観念」が発生したのは、おそらくこのような瞬間であったはずだ。観念の発生とは、言い換えれば神の誕生なのである。

 現代、わたしたちがテレビなどのマスメディアを通じて眼にするダンスのほとんどは、人間の肉体的・生理的快楽に依拠したものだ。絶え間ないビートに身体を乗せる、流行のストリート系ダンスは、人が個体を連続させようとする水平方向の欲望に支えられ、生きて世界に存在することの快楽を実現している。だが一見自由奔放に見える身体運動は、正確にカウントされるリズムによって拘束されている。今風のダンスは近代舞踏の形式からは解放されたが、リズムに呪縛されてしまったのである。足は大地を踏みしめるが、飛翔への憧れはもはや失われてしまっている。
 ところが梶田まりあのバレエの根幹には、垂直方向への強い衝動があるのだ。それは人が人であることを超克しようとする意志なのである。
 わたしの内部ではニーチェの「ツァラトゥストラ」が梶田の舞踏に共鳴している。神殺しで名高いこの書の冒頭で、森の聖者がツァラトゥストラをこう形容する。
さながら踊る者のごとくに行く」と。
 わたしは今まで「踊る者」が理解できなかった。それがデュオニュソスと連結していることは了解できても、表現として体感できるなどとは思ってもみなかったのである。
 ダンスを発見したデュオニュソスの使徒たちの秘蹟を、梶田まりあはまさにいまここで再現した。そこに潜在しているのは名辞以前の哲学である。
 厳しく訓練された肉体の、緊張に満ちた身体運動。何故これほど不自由な形式を持った舞踏表現が誕生したのか、彼女は鮮やかに証明している。そこには私性は存在しない。今様のダンスがうんざりするほどの自己表現であるのに対し、梶田のバレエは徹底した「自己消滅の表現」なのである。即ち、神性は忘我の内に宿る
 神の子を産んだ女と同じ名を持つ舞踏手、まさに彼女にはその名がふさわしい。

 それにしてもこの「崇高」を可能にしているものは一体なにものなのだろう。
 世の中には天賦の才に恵まれた者がいる。技芸のレベルを超越して光輝を放つアーティストは、まれにではあるが確かに存在する。つまり彼らは生まれながらにしてミューズに愛された人々であり、不断に他者を感動させる特別な者である。梶田まりあもそうした選ばれし民なのであろうか。否。わたしには彼女の、人の心を打つバレエを達成させているものが、天与の資質であるとはどうしても思えないのだ。
 梶田まりあは、表現の荒野を一歩一歩ためらうことなく歩む、その過酷な道程で、神々に発見されたような気がしてならない。

 梶田のバレエは観客の魂を踊らせる。心が動くということは、世界が動くということである。精神が変わるということは、世界が変わるということである。このような奇蹟を現出させていることを、おそらく梶田まりあ自身は知らない。そしてこれからも気づくことはないのであろう。なぜなら神性は忘我の内に宿るのだから。


梶田まりあのソロダンスは、
1997年8月30日、静岡・しずぎんホール ユーフォニアでの、
「LITTLE STEP FACTORY 1st. LIVE」で披露された。

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