舞台芸術公園のレストハウスはサマにならない。入って行くのには勇気がいる。例えばここでそばをたぐっているところなんか、気の合わない知人には絶対に見られたくない。こいつなぜよりによってこんなシーンを、という屈辱感を味わいそう。
この空間、なんかに似ているなー、と思っていたら、大学の学生食堂に似ているのだ。これ以上は望めないほどの凡庸な日常空間。無料サービスのお茶を飲んでいたら、かなり年輩のグループの一人が話しかけてきた。岡本孝子さんという県立劇団の衣装スタッフが友人で、東京から来たそうだ。
初めて足を踏み入れた「楕円堂」は特殊な空間。こちらは徹底して非日常。祭儀のための場であることが自明の空間で、ここでならば何が行われたとしても、疑問の余地なく演劇として成立してしまいそうである。
そこで観た、SPACの「リア王」。これはいかにも鈴木忠志好みのテキストである。運命に翻弄される登場人物たち。用意された悲劇的な結末。運命・宿命の暴力に人々は必死で抗い、立ち向かう。だが、決して勝利することはない。必ず敗北するのである。これこそは古代ギリシア人が「美」と呼んだストーリーの展開(形式)である。
ところが、である。疑問符の連続。完璧な形式が完成されているにもかかわらず、なぜここには神性が存在しないのだろうか。ここに「楕円堂」という完璧な神殿があり、ここで「演劇」という完璧な神降ろしの儀式が行われているのだ。なぜ神は降臨しないのか。「神」という言葉が胡散臭ければ、「劇的なる瞬間」と言い換えてもかまわない。鈴木忠志は神々に拒絶された演出家なのだろうか?
ぼくは鈴木忠志が以前、静岡の新聞に書いていたコラムを思い出した。そこで鈴木は、銃弾が飛び交い、砲火が炸裂するボスニア・ヘルツェゴビナから、彼の劇団に公演依頼が来たということを報告していた。なぜ鈴木は彼の地へ行かなかったのだろうか?
鈴木は「リア王」の公演パンフレットに「地球そのものが病んでいる」と書いている。この言葉を借りるならば、サラエボには内戦や民族浄化のような最悪の病状に直面している人々がいて、切実に治療(演劇)を必要としていたのではないのか。
ラジカルな意志のスタイル(形式)を掲げるスーザン・ソンタグは悪夢のボスニアへ赴き、ベケットの「ゴドーを待ながら」を演出した。電気の供給が停止した劇場で、ロウソク灯火を照明に、上演は決行された。一体何人の観客がそれを観たのだろうか? 虐殺と隣合わせの日々を送る人々に、はたして演劇を鑑賞する余裕などがあるのだろうか?
そこではたと事の本質に気づく。我々は「生活の余裕」があるから演劇を観るのではない。
ぼくは思う。鈴木はボスニアで公演をすべきだったと。そこには神に見捨てられた人々がいる。彼らは神の救済を待っているわけではないだろう。神が無慈悲であることを、彼らはとうに知っている。神々に拒絶されてもなお、そこに美というものが存在するならば、この世は生きるに値するし、そこには守るべき何かが残されているのだ。
と、うまくまとめるつもりだったが、どうにも腹に据えかねる。「世界は病院」だって? 「それも精神病院」だって? つまり病院は「世界」のメタファーなの? おいおい、いい加減にやめろよ、そういう解釈。世界は病院なんかじゃないぞ、ここは不断に連続する戦場だ!
まあいいよ、それでも、「事実などない、解釈だけが存在する(ニーチェ)」と俺も思うからさ。はい、「世界は病院」ね(まさかこれ「世界は舞台」と言ったシェイクスピアのパロディじゃないだろうな?)。で、なに、精神病院を舞台にして「リア王」が展開されるの? あー、よくあったよな、こーゆー設定、一昔前のアングラ演劇にさー。なんか変てこりんなことがいっぱい起きてさー、どうなっちゃうんだろうとドキドキしてると、それが全部、精神病院の中で起きてることだったり、患者の頭の中で進行している出来事だったりするんだよね。「ドグラマグラ」って探偵小説みたいにさー。
今やね、精神病院の中になんか精神病はないの。病院だから車椅子を使うなんて、そんな必然は通用しないの。わたしは車椅子が好きなんです、車椅子フェチなんです。こーゆーのが潔い表現への表明でしょうが。
「わたしは自分も病人ではないかと思っている」だって? そうだよ、その通りだよ。病気でもない人間は、自分は病気かもしれない、なんて言わないもの(「わたしはあなたの病気です」と言ったのは寺山修司だったか?)。
まあいいよ、それでも。再度譲ろう、あんたの病気については目をつぶろう。「リア王・病院版」。形式はあるよ。確かに美的形式はある。しかし中身がない。肝心の「美」がない。俳優が舞台の柱に実際に激しく頭をうちつける演技、飛散するつばき、はなはだしく流れる汗、こうした事象がひどく気になる。不快なのだ。人間の「生理」の一切がわずらわしい。美しくない。醜い。品がない。汚らしい。
鈴木忠志のメソッドは、個人の身体の特権性を排除する。特殊性を排斥したところから形成される普遍的な集団的演技術が、伝承可能な技芸として獲得される。当然俳優は交換可能。能楽のごとく、舞台で俳優が倒れ演技続行不能となれば、すかさず後見が登場し、演技を引き継ぐ。いいねー、そーゆーの。だけどさー、そうなってないじゃん。飛散するつばき、はなはだしく流れる汗、体液、体液、体液。俳優の個人的な生理の具体。すっげー「特権的」なもんじゃん。汗を流しているのは登場人物なんですか? 俳優でしょう? 俳優が汗をだらだら流してんでしょう? いいのか、こんなことで? かぶりつきで観たくねーなー。
飛び散る体液などというものは、ろくでなし共が演じるアングラ演劇や素人劇団の熱演だけにしておいてほしいものである。彼らの形式内に於いては、汗もつばきも「不快」を誘引するものではない。