ART CRITIC / CRITICAL ART #127 

SCOT 公演  「ディオニュソス」

古代ギリシアでは(ニーチェによればと言うべきか)芸術は、アポロ的な造形家の芸術と、ディオニュソス的な非造形芸術に区分されていたという。
その両者を合一したのが《アッティカ》悲劇である。アッティカはアテナイを中心とするギリシア中部の州。アッティカ悲劇は、アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスの三大悲劇詩人によって完成された。

ディオニュソスの別名はバッコス。周知の葡萄酒の神だ。そしてディオニュソスこそは演劇の神なのである。エレウシスの密儀にディオニュソス信仰が加えられ、ここから演劇が発生する。アッティカ州で行われていた「大ディオニューシア」は、その名のとおり、ティオニュソスを祭る大規模な演劇祭であった。

だがオリュンポスの神々にとっては、ディオニュソスは正統ではなかった。彼はアジアの辺境からやってきた異端者であり、それ故、ディオニュソス教団はかなりの迫害を受けていたようだ。

エウリピデスの「バッコスの信女」は、テーバイの町でのディオニュソス教団に対する弾圧と、ディオニュソスの凄惨な報復を描いた悲劇。舞台芸術公園野外劇場「有度」で上演された「ディオニュソス」の原型である。

SCOTの「ディオニュソス」。見事な劇的形式が創造されている。様式美と緊張感に満ちた舞台。しかし過剰。なにしろ重い。
ペンテウスがディオニュソスにそそのかされ、教団の女たちの乱状を見にゆくために女装して出かけるくだりなど、軽みのある場面なのだが、どうにも窮屈である。このような舞台を観るのは実にせつない。

修験者、阿闍梨を思わせる姿の信徒たち。静止した形が美しい彫像のように完成されている(つまり造形的でアポロ的?)
巫女のごとき信女。紅白の衣装。だがサムイ。ディオニュソス的ではない。野山を踊り跳ねる、ワイルドでパンクな信女たちがこれ?

途中、PAを通して流れる「神の」声は、白石加代子のものではないかと思う。それは録音され、安っぽいリヴァーブがかけられていた。
しかしそれでもなおかつ、その声にはどこかしら感動的なものがある。なぜだ?

いつのことかは知らぬが、白石加代子がまさに「バッコスの信女」と化した時期があったのだろう。その時、鈴木忠志はディオニュソスを視てしまったのだ。それだけは確かだとぼくは思う。あの瞬間をもう一度。うひゃっ、プルースト! 失われた時を求めて、鈴木は演劇を持続する。でもそれはやってこない。白石加代子は特別だったのだろうか。
うぬぬ、神の御前の特権など認めんぞ。演劇は超能力ではありません!(ぼくもそう思います)。
神事は伝承可能、神官も巫女も継承可能、役割は交換可能。
神降ろしのテクニックを劇団全体で集団的に共有せよ。
特殊個別を捨て、普遍全体へ。よし、メソッドだ!
ええい「特殊演技」は用済みだ、光年の彼方へぶっとんじまえ!

なぜだ、なぜ来ないディオニュソスよ!
この形式は完璧なはずだ。
これはまぎれもない芸術ではないか。
ヒッピーくずれのニューエイジどもが、マリファナ吸ってビルの屋上でUFOをよんでいるのとはわけが違うんだ!

信徒として一言のべさてもらう。
ディオニュソスはどこにいるのか? ディオニュソスに神殿はいらない。神の家は必要ない。 密儀(演劇)が行われる場所が、ディオニュソスの教会である。それは忽然と現れ、そして消え去る。
ディオニュソスは何を望んでいるのか? 形式を破壊すること。たえざる運動の内に、常に変化し続ける、一瞬たりともとどまることのない、いわば捕捉不可能な美を破壊と再生を通じて現出させることこそが、ディオニュソスの名にふさわしいはず(※このフレーズ、浅田彰の顔と声で)。

それ故、ここまで劇的形式、様式美を準備しておきながら、やんぬるかな、神は降臨しないのである。 無残! これこそが悲劇!


SCOT公演『ディオニュソス』は、
1997年9月12日、静岡・舞台芸術公園野外劇場「有度」で上演された。

Ayame−鈴木大治