ART CRITIC / CRITICAL ART #135 

午後の自転公演  「楽園」


遊佐未森は要注意である。個人的な経験から推察するのだが、遊佐未森の歌声が聞こえる場には、かなり高い確率でオタクが存在している可能性がある。うーん、同人誌系ミュージック。かつて谷山浩子も相当やばかったけど、同人誌でも谷山はポエムで、遊佐はアニパロな「やおい」という感じがする。群が広そうだ。コミケ。
演劇空間(すなわち舞台そして劇場)に遊佐未森が響くと、俺は反射的に第一級の警戒態勢に入る。遊佐未森の歌で軽やかさを演出しようというのが狙いだろうが、たいがいはその浮遊感に反比例して後味は重い。

のっけからナンシー関調で書き始めた(つもり)。「テレビ消灯時間」を読んだのである。なにしろこっちもオタク度を上げなければならない。「午後の自転」を評するにはオタクというキーワードは欠かすことが出来ないからだ。だってさー、「午後の自転」ってネーミング自体、もうすでに「やおい」じゃん。もちろん遊佐未森(と思われる)BGMも流れた。

実は俺、午後の自転には、これまで観てきた地域劇団の中では最高のポイントを与えている。なんとなく前々から気になっていたのだ。今回、初めてその舞台を観て、特別何かがすぐれているというわけではないのだが、バランスのとれた演劇集団という印象を強く受けた。

さて、劇の中身なんだが。「楽園」。ホリゾントに高層ビルの影絵。ラジオ局。深夜番組の女性DJの独白(この劇団の人たちの台詞回しは舞台俳優というよりも、皆一様にアニメの声優みたいだ。台詞術は達者)。で、何だかよく判らないんだけどDJ嬢は幕末にタイムスリップしちゃって、新選組の浪士に遭遇。すると彼らもタイムスリップに巻き込まれ、江戸は老中田沼の時代にさかのぼり平賀源内に遭遇。彼も道連れにすっ飛び、お次は源平の時代、静御前に遭遇。そして一同、行き着く先は「楽園」(原始時代ってことか?)。
SFによくある「時の旅人」物。そういえばこのあたりの設定、以前観た劇団RINの劇に似ている(劇団RINは別の意味でオタク度きつい)。
相当にドタバタした展開だがテレビ的ではない。舞台のセオリー、舞台の文法は整っている。80年代型小劇場演劇の継承者。たぶんそんな演劇など彼らは知らぬだろうが。

午後の自転にはコミケのやおい本に通ずる味がある。やおい本というのは、本家の物語、特にキャラクターを引用し、そこに様々なアレンジを加える(たいていはホモネタ)「戯作」である。俺が午後の自転をオタクだと断定した根拠は、ここんとこ、このキャラクター設定にある。
まず新選組。こいつはオタク度高いですよおお。世の中には幕末キャラクターファンという人たちがいて、十代の女の子なんかにもこの手合いがけっこういる。でも同じ幕末でも、坂本龍馬とか西郷隆盛が好きです、なんてんじゃオタク度は上がらない。 コミケな気分でいくなら、ダントツ新選組、それも沖田総司ですよ。
それから平賀源内。風来山人とも名乗ったこの男、それ系の連中の人気キャラ。
で、えーと、それで。

小劇場系の素人俳優は、演ずる本人の自我が浮き上がってしまうことが多々ある。だから俺はおうおうにして、演技者の役柄と日常での内面性をつきあわせてしまい、「一体なんだこいつは、なぜこの人は」という疑問符をかかえる。午後の自転には全くそれがない。居心地がよく、破綻がない。その反面、演ずる事への思い入れというか、役への没入がきわめて希薄だ。生き生きとした闊達な演技であればあるほど、それがただの舞台上の演技であることが露見してくる。

「楽園」の登場人物たちは、この「楽園」という物語が作り出すキャラクターではない。この劇世界において創造されたキャラクターではなく、これまで、かつてどこかで存在したキャラクターを引用した以上のものではない。役名が固有名詞=ブランドであることは、役(舞台に立っている人物)が自分ではない(非自己)ことの証明となる。あらかじめフィクショナルな人物を演じることで、人物像のリアリティーの欠落が不問にふされる。要するにコスプレ。かつて赤毛ものがそうであったように、いまはこの舞台のような時代物が異形(コスプレ)なのかもしれない。
ただ俺はこんな風にも思うのだ。素人芝居の最大の魅力は、この疑問符だと。「一体なんだこいつは、なぜこの人は」と客席で唸ること。同級生のナントカちゃんや町内のカントカさんの、日常(生活)のリアリティと虚構(演技)のリアリティのバランス。このバランスが虚構の側へ落ち込む瞬間が、素人芝居ならではの醍醐味ではないかと。

舞台上にある「虚」のリアリティーが、観客席の「実」のリアリティーを凌駕する時、観客の意識は変容する。変わらざるをえない。午後の自転の「楽園」では、それは起こらないだろう。だから「やおい」。
彼らの演劇には日常の彼ら個人としての主張はない。演劇を通過してなにものかが実現されているわけではない。それが演劇であるということの根拠を必要とせずに演劇を行うことが出来る。何故、演劇をやるのか。演劇をやりたいからである。
演劇する行為には意味があるけれども、行為された演劇そのものには意味が無い。つまり「やおい」。 否定するわけじゃない。それも表現だから。俺は、変わらないのって心地良いね、と思う自分を戒めるのみだ。
嫌いだね、遊佐未森。
劇団午後の自転公演『楽園』は、
静岡・サールナートホールで上演された。

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