ART CRITIC / CRITICAL ART #153 

佐藤典子現代バレエ舞踊団ダンス  「夕月・雪」
 現代バレエの創作者、佐藤典子さんには一昨年面識を得て以来、あちこちでお見かけするつどご挨拶はしていたのだが、その作品を拝見したことはまだなかった。
 今回、佐藤典子現代バレエ舞踊団が「邦楽ライブ 駿河なる雪の遊郭二丁町」で和楽器奏者たちと共演した舞台で(これは佐藤典子さんの本領ではないのだろうけれど)、その仕事の一端に接する機会に恵まれた。思うところがあったので記す。以下、敬称略。

 「現代バレエ」とは何ぞや? まさか「現代のバレエが現代バレエである」というわけでもあるまい(昔、つかこうへいが「純粋理性批判とは、純粋な理性の批判だ」と台詞に書いていたことを思い出した)。「現代バレエ」これ即ち「モダンバレエ」の謂いか? たとえばそのように仮定してみる。そこで、モダンバレエの基底にモダニズムがあるとすれば、そこでは形式の破壊・逸脱・刷新が常時行われているはずである。伝統的な舞踊では、クラシックバレエ、フラメンコ、日舞、コサックダンス(?)等々、それぞれに固有の「型」あるいは「形式」があり、一定の領土というか作法が築かれている。おそらくクラシックバレエでは振り袖の着物を舞台衣装では着ないだろうし、日舞のナントカ流もレオタードで踊ったりはしないだろう(あくまでもおそらくだが)。では佐藤の現代バレエではいかなる形式が更新・革新されているのか? さっぱり判らないのである。どうやらこれはモダニズムの理念とは無縁であり、したがって佐藤の現代バレエとは、古典的なバレエが持つ形式にとらわれない、種々の要素を混合したフリースタイルのバレエだと理解することにする。

 さて、佐藤の現代バレエには根元的な問題があると私には思える。それは「舞踊それ自体が代用のきかぬ唯一の表現」と成り得ていないということだ。

 私たちは舞踊手の様々な身体所作を目にする。手をかざしたり、片足をあげたり、うずくまったり、横になったり、半身を捻ったり。ひとつひとつの動きに意味があり、身体所作は指示記号として機能している。つまりそれぞれの所作が、ここにはない別の事象を表現しているのである。例えばしんしんと降りしきる雪であったり、手鏡に顔を映して己の身の上を嘆く女であったり、黄泉への小道を独り行く幸薄い女の姿であったり、たいがいの指示対象は読みとることができ、この現代バレエは高い精度で特定の事象を表現していると言えよう。  だが問題はここにある。確かにいまここ、このホールの舞台の上では雪は降ってはいないのだから、これらのバレエはいまここに存在しないなにものか(雪)を表現することに成功はしている。けれども映像でも言語でも、いまここに存在しない雪を表現することはできるのだ。バレエが雪を表現しなければならない必然はどこに、何故それがバレエでなければならないのか。
 こういうことだ、佐藤が創作する現代バレエが表現している事象とは、具体的な状況もしくは具象でしかなく、それはただ対象物を−指示−しているだけなのだ。いまここに存在しないなにものかを表現−指示−することと、表現−具現化−することとはまったく違う。私はバレエを含めあらゆる舞台芸術は不可視の事象を具現化するものだと考える。いまここにない、いや、いまここに存在しているのかもしれないが目には見えないなにものかを、私たちに見えるようにさせる魔術であってほしいと思う。
 反論はあるだろう。これらのバレエは感情や精神のありようを具現化しています。あなたは普段、感情とか精神を目にすることができますか? できない? ではごらんなさい、このバレエを、これが「心」なのです。再び、だが、私たちはたいがいの場合、感情というものを具体的な身体所作に置き換えている。両手で顔をおおう所作は何を意味−表現−しているだろうか。顔を洗っている状況かもしれない。悲しみであるとか恥じらいの感情だと受け取ることもできる。そのような理解が可能なのは、私たちの日常の中で身体所作はすでに記号として機能していて、そこに指示体系が確立しているからだ。ただしここに意味の階層が存在することを忘れてはならない。両手で顔をおおう所作が第一に指示する意味は「秘匿」「隠蔽」である。その向こう側に身体行為の導因としての感情がある。彼女が両手で顔をおおったのは感情を自制する(秘匿・隠蔽)するためであり、悲しみを表現するためにそうしたのではない。けれども身体所作は感情の表現記号として了解されていて、パントマイムはそうした記号群の集積の上に成り立っている。
 私はバレエの身体所作が指示対象と、このように単純な関係しか取り結んでいないと言っているのではない。所作と所作、動きの結合はもちろん別の意味内容を生成するが、あくまでもそれが意味として了解可能な領域内に留まっていることに失望しているのである。バレエが感情の具現ならば、既に私たちの身体そのものがいくつかのプロセスを経て具現された感情であるのに、なにをいまさら舞台に上げる必要があるのか。
 記号化され、形式化した紋切り型の表現を打倒する意志はここにはない。凡庸な、ベタな、クリシェな(c春日太郎)身体行為が表象しているのは、総じて私たちの脳内に存在するもののみ。


半年ほど前、ぼくは初めて彼女のソロダンスを観た。それまでぼくはダンスにはまるで無関心だったし、何かを期待して会場を訪れたわけではない。にもかかわらず、それは起きた。
ぼくは神のようなものを視たのだ。舞台上の彼女が神のように見えたということじゃないし、神懸かり状態になったというのでもない。彼女が踊るその空間の中になにかが存在し、ぼくはそれをはっきりと視たのだ。突然視えないものが視えるようになった、そんな感じだった。それはぼくの日常では決して視ることも知覚することもできないし、概念として想像することも困難なものだ。形容すること自体が不可能だから、ぼくはそれを仮に神のようなものと呼んでいるのだ。
でもぼくが視たものが何だったのか、いまだに本当のところは判らない。たぶんぼくが認識できる領域の外側に存在するものだから、ぼくの意識はそれを把握することができなかったけれど「視た」という体験だけは身体の感覚として鮮明に記憶しているのだ。
ぼくはあの瞬間にぼくが視たものをもう一度確かめたくて、それから何度か彼女のソロダンスを観に行った。
けれどもそれは、


 今回の佐藤の現代バレエがどのような演出方針のもとに創作されたのか、その意図は私にははかりかねる。バレエが単なる情景の指示装置として提示されたということも当然ありえる。また、佐藤が「表現とは即ち対象の指示行為である」と規定していたとしても、それをよしとするか否かは観客個人の判断でしかない。公演は昼夜二回あり、私は昼の部を観た。夜の部の舞台も私が観たものと同じであったのかは判らない。ただ私はこのように観たのだった。

 私たち人間は認識できるものしか認識しないらしい。もし私たちの目の前に突然、宇宙人や宇宙船が現れたとしても、それが私たちの想像を絶するようなものであったとしたら私たちの脳はそれを認識することを拒否し、そこにそれが存在しても私たちにはそれが見えないだろう、と心理学者たちは考えている。

 ダンスは私たちの脳髄の内部に、過去には存在しなかった概念を言語に依存せずに発生させることができるはずだ。繰り返す、いまここにない、あるいはいまここに存在しているのかもしれないが目には見えないなにものかを、私たちに見えるようにさせる魔術であってほしいと。

佐藤典子現代バレエ舞踊団の創作現代バレエは、
1998年2月14日、静岡・サールナートホールでの、
「邦楽ライブ 駿河なる雪の遊郭二丁町」で披露された。

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