ART CRITIC / CRITICAL ART #201 

リズム&バランス元気会  「開放と創造」


記憶の骨を打ち鳴らして ステップを踏みつづける
重力の祝福をうけて 踊りつづける       
───────マジック・ランタン・サイクル『ダンス・ダンス・ダンス』

 「リズム&バランス元気会」と聞いて、真っ先に「オウム神仙の会」の名が頭に浮かんでしまった(笑)。その名前にどこかいかがわしさを感じさせるグループは、日本平の野外劇場「有度」で鮮烈なデビューを飾った。三人の踊り手と三人の打楽器奏者、男性だけで構成された元気会は、静岡県舞台芸術センターSPACが主催する「野外劇場フェスティバル '98・ダンスの饗宴」の二日目に四番手として登場し、満場の観客の圧倒的な拍手と歓声に包まれたのみならずアンコールまで要求されたのである。


 ダンスの最大の魅力とは何だろうか。それは「群舞」にある、とわたしは考えている。踊り手の個別な運動技量よりも、「群舞」を成立させる個人と個人の関係性こそが重要である。そこには一定の法則がある。群によって共有された法則があり、その法則に従うことによって「群舞」が形成される。ステップ=技術が共有されれば、群は個人を捨てて同じステップを踏む「群舞」を生じさせる。群の一糸乱れぬ動き目にするとき、わたしたちは規律の強度に感嘆する。軍隊の行進が、しばしば力強いダンスと見まがう所以である。また何らかの観念が共有されれば、群はその表現のためにこれまた個人を捨て去る。ダンスにとって個的な技量は真に重要な要素ではないのだ。
 例えばクラシック・バレエにおけるソロは、「群舞」によって構築された形式を破壊するために−立ち現れた法則が運動を固定することに抗うために−必要とされる。完成された空間(形式)を解体するには、破壊者たるソリストは、「群舞」の形式の強度に拮抗し凌駕する形式を持っていなければならない。そのための技術として個人の技術が要求されているのであって、決してテクニックそのものを披露することが目的ではない。
 創造と破壊と創造の繰り返しがバレエ宇宙の内で連綿と続き、コスモスの「見えざる中心」に法則=個人と個人の関係性がある。

 では「リズム&バランス元気会」のダンスを通底する法則は? 自明を承知で言うが、それは「リズム」である。純粋舞踊として踊り手の身体運動のみに着眼すれば、元気会のダンスは「群舞」ではない。三つのソロダンスが同時進行している。三人の踊り手の身体運動技量のバトルである。己の流儀で勝手に踊っているように見える。それぞれの踊り手が、それぞれの言葉でそれぞれを語っているだけだ(手話を例として引くまでもなく、身体運動は言語である)。だが、三者に共通なフィールドがあれば、個別的特殊な三つの言語間に対話が成立する。関係が構築される。元気会はリズムを法則として共有することで、ここに源初の「群舞」を発生させたのである。
 逆に言えば、ここではリズムだけが共有されている。緩急自在な太鼓のリズムに同期して、様々なステップ、身振り、身体運動が展開する。ダンスが太鼓に合わせているようでもあり、太鼓がダンスに合わせているようでもある。即ち、両者が共鳴しているのである。

 共鳴現象は舞台と客席の間にも発生した。踊り手の身体運動の持つエネルギーが、観客の内部に潜在するエネルギーを招喚する。呼び覚まされた観客のエネルギーは、手拍子や掛け声(発声器官の運動)といった自発的な身体運動となって表出される。
 これは演者が観客を挑発しアジテートした故だと考える向きもあるようだが、たとえ舞台からのそうした呼び水がなくとも、観客は共鳴しただろう。元気会のダンスには、現代の私たちの実生活から見えなくなって久しい無邪気さや生命の躍動があるからだ。それらは誰もが持っている身体運動を生起させる内的な衝動である。その明示に成功しているのは、元気会が音楽舞踊における音楽の要素をミニマムにしたからだ。
 思えば現代の音楽舞踊は、過剰な音楽によって、人が踊る根拠を覆い隠してしまったようだ。美しく叙情的なメロディは、観客の感情移入を容易にするが、感情の揺れは身体運動に変換するにはいささか複雑すぎる。その反動としてリズムだけを強調したトランス系、テクノ系のクラブ・ミュージックが求められているのだろうが、そこにも何かいびつさがあるとわたしは思う。
 実際、昨今のメディアに露出するダンスのほとんどは、機械化された身体運動の上に成立している。運動の速度は、あらかじめ録音された音楽のビートの速度に合わせなければならない。否が応でも従わなければならない。なにも今様な若者に流行のダンスに限ったことではない。音楽舞踊のほとんどが−クラシック・バレエでさえも−、その身体運動は機械によって再生される音楽に合わせて行われているのである。そこには身体運動の自立性など望むべくもない。踊り手の身体の自立を保持するには、臨機応変な生演奏が必須なのである。そして踊り手に呼応し共鳴する演奏者の身体運動もまたダンスなのだ。


 冒頭、元気会は「弥生の火を灯せよ」という歌声と共に現れる。弥生とはもちろん我が国の古代世界のことであろう。作務衣風の装束、重心の低い踊り。洗練とは言い難い荒々しいステップ。たしかに元気会の舞台は、ダンスの起源をいま・ここに現前させるものであった。これはダンスなのだろうかと首をかしげ、逡巡した果てに、そうかダンスはこうして始まったのだと納得する。だから一見すると、元気会は、日本人の民族性を足場としたプリミティヴなダンスの再生を目指しているように思われる。しかし、元気会は一筋縄ではゆかない。彼らの素朴さの背後には、相当なくせ者ぶりがうかがえるのだ。

 ちょうど十年前のことになるが、反核運動とエコロジー思想がヒッピー文化の残党と結合した頃、縄文文化の復権がさかんに提唱された。それは戦後世代による民族の独自性や土着性の主張であり、機械文明の行き詰まりから来る自然回帰指向でもあった。縄文土器の特徴でもある火炎文様は、縄文人の信仰対象としての火の重要性を示している。現在でも火はダンスのモチーフとして欠かせない。縄文時代には、火を囲んで、日本人の原初のダンスが踊られたのだろう。何故、元気会は縄文ではなく弥生と謡ってしまったのか。
 弥生文化は大陸渡来の文化との混交によって成熟していった。混在する多様性は、おそらく身体運動にも影響を与えていたはずである。実はここに元気会との共鳴がある。
 注意深く見れば、彼らの身体運動には、日本の武道からブレイク・ダンスにまで及ぶ、様々な身振りが引用されている。プリミティヴな身振りもそれ自体が目的なのではなく、身体運動の多種多様さを追求する過程で現れたものでしかない。そしてこれは創生途上のダンスだが、決して未完成ということではないのだ。何故なら元気会は彼ら独自のダンスを創っているわけではないからだ。私たちの日常生活の中には存在していながらダンスとは無縁であった身体運動、それらを元気会はダンスの場に押し上げようとしているのだ。だからこそ元気会は新しい。彼らのダンスは、過去になかったダンスではなく、過去に発見されなかったダンスなのである。いまあるものとは別の進化樹の上にあるダンスなのだ。その意味で、元気会はダンスの歴史を、その出発地点からもう一度やり直すという爽快な野望を実践している。言うなれば、これは遅れてきたポストモダン・ダンスなのである。

 いまモダンという語のつくダンスの多くは、退屈きわまりないものになっている。この界隈で観ることができるモダン・ダンス、特にモダン・バレエが駄目なのは、クラシック・バレエが到達した地点、形式の臨界線から、更に先へと進もうとしている(進めるものだと思っている)からではないだろうか。クラシック・バレエの限界は即ち人間の身体の限界であると気づかぬ舞踊家が多すぎる。ダンサーが3mの跳躍を可能にすれば、あるいはダンサーの腕が三本あれば、クラシック・バレエには革命が起こるだろう。クラシック・バレエが数百年かけて創りあげた形式は、再び進化を開始する。しかしたぶんそのようなことはあり得ない。人間の手足の数はこれ以上増えそうにないからだ。
 仮に形式の革新(モダン・バレエ)が実現されたとしても、それは超絶的な技術と身体能力を持ったダンサーによって、臨界線が一時的に拡張されたに過ぎない。


 元気会の出現によって当地のモダン・ダンスは一蹴されるとわたしはにらんでいる。元気会が試みているダンスの遺伝子組み替え操作からは、何かとてつもないキマイラが現れる可能性が充分にある。十年後、元気会が天下を取っている確率は高い。要チェック、こいつは本命だ。
 但し、観客のアンコールの要請に応え、予定にはない即興が踊られた際、リーダー格の踊り手が、演奏者や他の踊り手一人一人に中央でソロを演じるよう指示したことに対し、彼らが一様に「俺は遠慮しておくよ」とでも言うように躊躇していたことはいただけない。このようなためらいは、一瞬のリアルナウを全力で生きる舞台人として命取りである。猛省を促したい。


リズム&バランス元気会のダンスは、
1998年7月11日、静岡・舞台芸術公園野外劇場「有度」での
「野外劇場フェスティバル '98 ダンスの饗宴」で披露された。

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