ART CRITIC / CRITICAL ART #315 

TOMO★PROJECT公演  「幾時代かがありまして」

いきなりトツニュウするカラオケ熱唱。
トートツに始まるダンス。
なに、これ? こういうセンスって何なんだよ?
ダッセー、と思う俺がオヤジ?
面白がれない俺が悪いの?
ヘキエキ。

客入れの間中、うす暗い客席で矢野顕子を聞かされる。悪かないですよ、別に。でも、なんとなくノスタルジー(このフレーズ、ちょっと気に入った)。いや、徹頭徹尾ノスタルジーだったと言い切ろう。
開演と同時に既視感に襲われた。あー、こういう演劇あったよな。昔々、幾時代かがありまして、こーゆー演劇ありました。ミモフタモナイ小劇場演劇。なつかしくもなんともないけどさ。

三方を障子で囲われた六畳の空間。ドメスティックでございます。この舞台装置、以前ビデオで見た『少年王者館』に似ている。もちろん両者にはなんのつながりもない(はず)。

今回、俺は「と」演劇というものを想定してみた。トンデモ演劇ではない。ファミリーレストランのメニューによくある、エビフライ「と」ハンバーグとか、安心トマト「と」キノコのリゾットとか、あれの演劇版。合わせ技、あるいは出会いの有効活用。そういえばインターネット「と」冷蔵庫という組み合わせがあった。インターネットに接続できるという冷蔵庫だが、これって本当に発売されたのだろうか?  そもそもインターネット「と」冷蔵庫を結合させる意義はどこに?
この場合の「と」は、トンデモ色が強い。しかしこの発想自体は痛快である。座布団出してもいい。

TOMO★PROJECT公演『幾時代かがありまして』の「と」は、中原中也「と」チェホフである。
中也とチェホフ。違和感がない。中也とシェイクスピアではどうだ。どうもバランスが悪い。 中也とベケット。かなりまずい気がする。中原中也「と」冷蔵庫。論外? たぶん中也との相性の問題というよりも、チェホフの自己主張の薄さがポイントなのだろう。
以前、静岡の俳優養成所研究生の公演を観た。その時の演目が、清水邦夫の『楽屋』「と」チェホフの『かもめ』をくっつけた劇だった。これまた違和感がなかった。
寺山修司とチェホフ。ぴったり(あ、これは当たり前か)。

なんでチェホフなの? 無難だから? この安全パイはマイナス。志し低いぞ。

演劇は常に「と」である。俳優「と」観客が出会う場所。「と」さえあれば、演劇は発生しうる。だから、あーお手軽にやってやがる、と思ってしまう。

長谷川泰子をめぐる物語。
長谷川泰子。グレタ・ガルボに似た女(だったよな、たしか)。中原中也と小林秀雄と長谷川泰子の三角関係。劇中、中也の詩が次々に詠まれるのだが、そのたびに、あ、これで終わりかな、と思った。ラストシーンを10回くらいみせられたようだ。
一編の詩は様々なイメージに向かって開かれているようでありながらも、実は、それ自体がひとつの小宇宙として完結している。詩の力に拮抗できない劇世界は、強制的に終了させられているのである。
言葉を安直に引用していると報復される。

長谷川泰子を演じる役者が持っている文庫本。
これを中也の詩集に見立てているのかな? タイトルをチェックしたら、『白い巨塔』だった。最後にこの本はビリビリと引き裂かれるんだけど、『白い巨塔』なら惜しくなかった? ゴミ回収の日、収集場に出ていそうだもんね。女性誌なんかと一緒に紙ひもでくくられて。

でもなー。
なんでだろう。どうして中原中也「と」チェホフなんだ? やっぱりあれかなー、物語の構築力が下がっちゃっているのかなー? 新しい物語が創れないんだな、この人たちは。それか、もしかしたら、もう新しい物語なんて必要ないのかも。

新しいものなんてなにひとつ創らなくても、「新しさ」は創れるんだって、ポストモダニズムは実演した。
でもなー。
自前の言葉が見つからないっていうのは、どうにも辛い。

ぼくの現在から「遠い」と感じた決定的な理由は、全編に漂う「うす暗いフェミニズム」の印象。ヌケきらない。アカ抜けない。女たちに魅力がない(女たちばかりの芝居なのに)。ヒロインの創造に成功していない。性交していない。潜在的な「フェミニズム演劇」? そんなご立派なものでもないか。
過ぎし日々の「バブル演劇」の残滓。
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