ART CRITIC / CRITICAL ART #321 

リズム&バランス元気会  「対舞」


我らの生は夢ではない。                
だがそれは夢になるべきであり、やがては夢となるであろう
───────ノヴァーリス



 元気会の主宰者、チャッキリのりおが演奏やダンスへの参加を呼びかけると、観客は次々にステージへとびだしてゆく。いままでぼくの隣の席に座っていた女の子が、満面の笑みを浮かべて、客席の階段を駆け下りてゆく。
 なんだ、この子は客じゃなくて元気会のメンバーだったのか?
 演者と観客が渾然一体となって歌い踊るフィナーレが始まると、ぼくは宗教団体の集会を見ているような感覚に襲われた。
 これはなんなのだろう。
 確かに会場全体を包み込むような宗教的な歓喜・一体感がある。大人も子供も老人も、老若男女を問わず、舞台に向かって駆け出す。
しかし実際のところ、元気会は宗教集団ではないのだから、そこから宗教性をさぐるのは徒労であろう。
「始めに神を排除せよ」。

 ここに発現した「舞台と観客の一体感」は、通常舞台人たちが口にする「舞台と観客の一体感」とは異なる。一般的に言われる一体感とは精神の感応性あるいは共振性の意である。あくまでも心的な事象なのだ。
 例えば演劇において、舞台上の物語や登場人物に感情移入するあまり、観客が舞台に乱入するというような事態が許されているだろうか。ダンスに興奮した観客が、思わず立ち上がり客席で踊り出すということが有り得るだろうか。
 そうしたことがまず起こらないのは、原則的に観客は舞台に越境することが認められていないからだ。けれども元気会は、観客に対して舞台への具体的な・物理的な・現実的な関わりを要請している。共感とか、感情の共有といった次元の問題ではないのだ。ステージに観客が乱入する、それがありなのだ。
 なぜそのようなことが可能なのか、なぜそのようなことが許されているのか。
 舞台上の出来事は「虚構」の側に属している。それに対して観客は「現実」である。両者は劇場という空間で出会いはするが、ふたつが混じり合うことは決してない。舞台に観客が上がった瞬間、舞台上に存在していた表現は、二極のいずれかに収束する。観客という「現実」の侵入によって舞台の呪力が破壊された場合、演者たちは「現実の事件」にまきこまれた当事者に変質する。観客たちの前で「虚構」はあとかたもなく消し飛び、舞台は日常の延長となる。
 もう一つのケース。表現の強度や質によっては、「虚構」が「現実=観客」をのみこんでしまうことがある。その時、舞台に侵入した観客は、もはや観客では有り得ず、他の観客たちに視られる演者と化す。すなわち事件自体も舞台表現の一部分として認知されてしまうのである。
 さて、元気会が意図しているのは後者だろうか?

 ぼくの知る限りでは、舞台人は程度の差はあるにしても、皆一様に表現のクオリティを高めようとしている。なぜならば、演者の技術・技巧・集中力等々が、観客の現実から遠ざかれば遠ざかるほど、「虚構=異界」としての舞台の強度が増すからだ。
 ところが、どうもみるところ、チャキリのりおは舞台上の表現のクオリティに無頓着なようなのだ。それはおそらく、客席と舞台、観客と演者の境界線を破壊し続けることがチャッキリのりおの表現であり、チャッキリのりおの決定的な関心事は舞台上には存在しないからだ。
 舞台と客席が混じり合った状態においては、観客と演者の区別はない。会場の全員が演者になり、観客が消滅してしまう。劇場から異界が消え、場は完全なる平等性が保証された現実空間となる。あるいは会場全体が異界に転じると言ってもいい。
 つまりこれは演者が観客に何かを見せる公演ではない。人々が集う会なのである。観客は舞台を観る者ではなく、集会の「参加者」なのである。そしてなかなか受け入れがたいことなのだが、それを起こすことが「表現」として行われているのだ。
 元気会の目論見が完璧に実現すれば、客席には一人の観客も残らないだろう。

 これまでのところ、チャッキリのりおの意図はゆるぎなく成果を上げ、元気会集会は参加者たちの束の間の共和国として機能している。だが、元気会集会の目的は何なのだろうか。最終的な着地地点はどこなのだろう。客席と舞台が融合することで、何をなそうというのか。もし望むなら彼は、宗教者にも政治者(こんな言葉、ありか?)にも教祖にもなれるはずだ。いずれはそうなるのだろうか。先は見えない。いま言えるのは、チャッキリのりおはハメルンの笛吹きではないということである。彼は「約束の地」をまったく想定していないようだ。人々を共鳴の場に終結させても、彼らを連れ去ることはない。いまはまだ。

 元気会の舞台の上で、チャッキリのりおは、優れた表現者たちが舞台で実践してみせる「神との対話」もしなければ、表現者が自我を超越した時に発動させる「神性の召喚」とも無縁である。
 表現者はミューズ(神)と対話するものだ。チャッキリのりおもミューズの存在を疑るものではないだろう。しかし彼は知っているのだとぼくは思う。「ワタシの神はアナタの神ではない」。それは正しく現在の、ぼくたちのこの無慈悲な世界の現実そのものであり、アフリカの内戦にしても、バルカン半島の惨劇にしても、避けられたはずの暴力のほとんどは神が共有されなかったことに端を発しているのである。
 この神なき時代に人々はどのようにして結集することが可能なのか。元気会が目指しているものは、この問いかけに対するひとつの試答だとぼくは考える。これは神という中心が消滅した祭りなのである。

「歌え、踊れ、叩け。唄がきみを守る、ダンスがきみに勇気を与える、ビートがきみを元気にする。神は決してきみを救ったりはしない」

 ぼくのミューズはこのようにチャッキリのりおの言葉を伝えてくれた。



リズム&バランス元気会の集会(?)「チャッキリのりお 元気の集い」は
1999年4月28日、金谷・夢づくり会館で開かれた。

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