ART CRITIC / CRITICAL ART #323 

午後の自転 第八回公演  「流星のシステム」


 この数年、静岡の劇団の舞台をかなり観てきたが、ぼくとしてはこの舞台がベストだと思う。もちろん彼此を比較してのことだから、全面的に薦すわけではないが、いまのところ静岡ではトップだ。

 まず台本の良さ。といっても斬新さや独創性があるわけではない。主人公の女性は、ある忌まわしい過去を意識下に封印している。記憶の封印が崩れ始めることにより、世界は異様なものへと変質してゆく。主人公は真実(事実)と出会い、そして秩序は恢復される。

 ようするに、「癒し」の物語であり、「自分探し」の物語である。小劇場演劇の定番のテーマだ。(このタイプの物語はアニメやテレビゲームが成熟を更新してきたものだが、最大の貢献者はなんといっても「少女マンガ」である。戦後文化の中で、「少女マンガ」が創りあげた「物語の原型」の影響力は計り知れない)。

 自前の創作物はここにはない。全てが何かの引用であり、何かの再利用であり、何かの寄せ集めであり、そして全てが何かに似ている。けれどもそれこそがポストモダン演劇のあり方である。
 ひと昔前、生田萬が流行らせたあの台詞、どうだったかな。「過去はいつでも新しく、なぜか未来は懐かしい」、こんな感じ?

 『流星のシステム』にはかつてはサブカルチャーであった様々な周縁のセンスがつまっている。文学の周縁であったSF、サブカルチャーの更にサブであった少女マンガ。今では誰もそれが周縁だとは言わぬだろうが。
 たぶん八十年代以後の二十年の間のどこかで「100匹目のオタク」が出現し、その瞬間、メインカルチャーとサブカルチャーの境界線は消滅したのだろう。

 午後の自転の物語/舞台の特徴は、「性」の希薄さである。男女の性的欲望/特質が欠落し、登場人物は皆、中性的になっている。
 ナイーブな男たち、アグレッシブな女たちというようにキャラ立てがされているのだが、ここにみられる、社会が与えてきた男女の性的役割(男らしさ、女らしさ)からの離脱は、彼らが「性」に対する自覚を持った上で決断したものではない。
 つまり一旦獲得された「性(ジェンダー、セックス)」を意図的に破壊したというより、幼児のように性が今だ未分化なのである。

こうした物語を紡ぎ出すことができるのは、ひとえに彼ら(台本の作者岡康史?)がポストオタク世代だからなのだろう。十年程前の埼玉連続少女誘拐殺人M事件から、酒鬼薔薇事件をつなぐ世代が持つ「時代精神」。
 例えばらせん劇場の都築氏や劇団RINの中村氏は、共に同世代の、作・演出を兼ねる代表者(主宰者)だが、彼らの劇世界のセクシュアリティにはきわめていびつなものがある。歪んだ性。彼らの世代がどうしても越えることが出来なかった「性」の限界が、どんよりと薄暗く露呈している。しかも彼らの世代は「解体」の気概にあふれているものだから、カミングアウトしたようなつもりになっているので始末におえない。もっともそれが彼らの「ツァイトガイスト」なのだから、ぼくがとやかく言う筋合いではないのだが。
 今、屈折せずに「性」と向き合うとすれば、午後の自転が示したセクシュアリティーのような形態にならざるをえないとぼくは思う。付け加えれば、こうしたセクシュアリティーの展開を支援していったのも「少女マンガ」なのである。(愉快なことに、『流星のシステム』を観た翌日、ぼくは「レディースコミック」に連鎖した演劇を観ることになる。)
 しかし、だがしかし、どこかに全く新しいセクシュアリティーの萌芽があるはずなのだが。それはまだ発見されていないのだろうか、それとも誰も言わないだけなのか?

 ところでこの劇団の俳優たちの演技だが、彼らの、特に女優たちの台詞術がアニメの声優の喋りに酷似しているトぼくには思える。概して早口であり、台詞間の「間」が短い。意図的な演出なのかは判らないが、劇団のスタイルが成立している。物語の質がこのような台詞術を必然的に要請したのか。ともあれ台本によくみあった演技術。特筆すべきは何もないが、バランスがとれている。
 ぼくが今、この劇団を薦す理由はこれに尽きる。バランスの良さ。演劇の複合的な要素のそれぞれのポイントを合計すると、最高点になっていたということである。
 結局、人前で演劇を見せるというのはそういうことなのだ。ポイントを下げられるようなリスクを回避すること、質の最低レベルを常に保持することが上演総体の評価を上げる。ただし、芸術としての演劇はこれには当てはまらない。

以下、雑感。


 とかくオタクは枝葉末節のディティールに拘泥する。些末な情報にたやすくひっかかるものだから、事の本質がつかめない。ピカチュウキツネリスのパクリじゃないのか、なんて勝手な思い込みを発見と勘違いして有頂天になったりもするし、おっとそのネタ元、俺には判ってんだぞトいう勝手な納得がまたこたえられない。
 オタクがポストモダンを牽引していったのには、ポストモダニズムの引用性がオタクたちの気質にヒットしたのだろう。
 オタク性が濃厚な午後の自転の芝居は、当然、観客の(ぼくだけかもしれないが)オタク魂を刺激する。
 「『高い城の男』という小説があるが」おいおい、そこでその具体的なタイトルをだす必然性ってあるのか? P.K.ディックかあ、最近ご無沙汰しちゃってるな、あ、新刊、ハヤカワ文庫から出たんだよな、そういえばこの芝居、ディックの味、入ってんのかな、『暗闇のスキャナー』とか『火星のタイムスリップ』とか、うーんポストモダン演劇ってなんか猫も杓子もディックしていたな、あらあらこの女性、心理学の教授の助手かと思っていたら、実は患者だったの? これって『ドグラマグラ』ですかあ? えっ、「馬鹿の星から馬鹿をひろめにやってきた」だって? あー、そりゃ落語のクリシェ、げっ、だから『ドグラマグラ』か、桂枝雀のファン? 怪しいな、ここの劇団の舞台監督、元オチケンだからな、意外とその線でつながっているのかもしれないな、『夜間飛行』、サン・テグジュペリの文庫本? あれってたしか絶版だったんじゃないかな? む、それで東京で探して買ってきたなんて台詞があるのか、マジで買いに行ったのかな? 捏造された記憶、思い出の場所、始まりの場所? はっ、もしかしてこいつ、『FF[』やりやがったか? ややっ、このラストシーンの花火、まさかこれは『』でわ!

考えすぎてしまいました。

午後の自転第八回公演「流星のシステム」は、
1999年7月9・10日、静岡・サールナートホールで上演された。


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