ART CRITIC / CRITICAL ART #324 

PECT 公演  「向日葵と夕凪」


 静岡の老舗の珈琲店「ういんな」で行われたPECTの公演に行った。
 フロアーの左右の煉瓦壁に張り付いた長椅子が客席。演じる俳優を、観客が挟むようにして観る。
 海岸沿いの町。高校の老美術教師の葬儀。縁あった人々が集まる。38才独身のシンちゃんは、亡くなった老教師と同じ学校で教鞭をとっていた。教員を辞め、今は海辺でバー(だと思うけど)を経営している。
 葬儀の後、シンちゃんの店に立ち寄る三人の教え子たち。思い出話。やがて過去の隠された事件が明かされてゆく。
 ちょっとミステリアスでメチャ甘いロマンス。ストーリーの要は「38才独身」シンちゃんなんだが、こいつがまた優柔不断で女々しくて受身で、傷つく自分に酔っちゃうような奴で、まあ憎めないタイプなんだけど、やっぱりしょーもない男。
「ああいう男って、この町にも山ほどいるわよ」と、ういんなの店主アイさんの弁である。現役女子高生の鮎都は、「担任の教師の部屋へ自分から押しかけてって、それで子供できちゃう女子高生ってなに?」と言う。でも御両人ともこのストーリーには、けっこうハマっているのがおかしい。実はほかならぬぼく自身がどっぷりハマりまして、うるうるしちゃったことを認めます。マジで泣けた。

 PECTはこの夏、全国ツアーを行っている。今回の静岡公演はキャストを入れかえての再演。ぼくは7月に、やはりういんなで『向日葵と夕凪』を観た。だからこの演目を観るのは二度目。ストーリーも泣かせどころも、全部判っちゃいるんだが、やっぱりググッときちゃった。熱く胸に「くる」ものがある。なんなのだろう、こういう切なさは。「俺、どうしちゃったんだろう」って不安になるくらい
 ぼくは性根のねじけた観客で、はなっから芝居を色眼鏡で観てしまう。態度を改めようなんて気はない。木戸銭払って観ている以上、そういう観客だって間違いなく観客の一人だから。その俺さまが? 不思議だ。PECTの演劇って一番ぼくから遠いはずなのにな。
 台本のうまさ? でも待てよ、これって独創性のあるストーリーと言えるのか? 少女マンガとレディースコミックの中間。成長して大人になってゆく少女、走り去る彼女たちに取り残される男。ベタなプロットやキメ、歯のうくようなフレーズがノンストップで乱射状態。台詞の文体、いささか浮世離れしているような。「きみの瞳に乾杯」って台詞、現実に言う奴っていないでしょ、そういう類の不自然さ(あれ? いま思ったんだけど、ということは、ぼくはこの芝居を虚構として観ていなかったってこと? 完全にハマっちゃってるじゃん)。一言いうたびいちいち疑問符が浮かぶ。かなーり複雑な心境。おいおい、その台詞が通っちゃうのかよ。そう、通っちゃうんだな、これが。いや、通してしまった。あー、駄目、その台詞、かゆくなっちゃう、という意識がたしかにあるんだけど、にもかかわらず「いーなー」「いーよー」と、ジワーっとしてしまう。なぜだ、でもイイ。俳優の魂魄が、雑念を叩きつぶす。目の前、わずか1mたらずのところに立って演ずる俳優のリアリティが、「くる」

 PECTの人たちって、すごくフツーだ。市井の人。特殊性が全然無い。ぼくの知る限りでは、ツアーをやる劇団の連中って、ほとんど一般からはみだしていた。だからPECT、新鮮。もしかしたらその普通さが、とてつもなく異常なことなのかもしれないんだけどさ。
 残念だったのは観客数。もっと来てほしかったな、静岡の人たち。こういう演劇に客が入らないってことは、静岡の「演劇の活況」なんてまるっきりのイカサマだってことだ。 いいぞ、PECT。ぼくは支援する。無力ですまぬが。

 芝居者の初心にかえった気がします。


PECT公演『向日葵と夕凪』は、
1999年7月11日・9月19日、静岡・ういんなで上演された。




contact:ayame@fuji.ne.jp

▲back