ART CRITIC / CRITICAL ART #371 

SPAC 公演  「不思議の国のアリス」


演劇なんかやる奴はみんなオカマだ、と言った人がいる。
ぼくもそう思う。演劇なんかやる奴はみんなオカマだ。
ではぼくはどうなんだ、ぼくも演劇に関わる一人だが、オカマか? そうじゃないのか? 
ということで、直感的には「演劇なんかやる奴はみんなオカマだ」に同意しつつも逡巡する複雑な心境。

「あの、次の日曜日というと、何曜日になるんでしょうか?」
「たぶん月曜日だと思いますけど」
「ああ、そうでしたか、ぼくは又、金曜日かと思っていました」
先日ぼくがやった歌謡ショーのコントの一節である。
台本を読んだとき、これ本当に大丈夫なのか、と思った。
ところがあにはからんや、どかんどかん笑いがとれる。
嬉しい反面、何故だ?、と不思議な心持ちになった。

「あの、帽子屋さんのお茶の会はこちらでしょうか?」
「いいえ、ここは帽子屋さんのお茶の会です」
「ああ、そうですか、わたしは帽子屋さんのお茶の会ではない帽子屋さんのお茶の会をさがしているんですけど」
これは別役実の「帽子屋さんのお茶の会」。手元にテキストがないけれど、たぶんこんな感じ(原典入手したら正しく記述します)。ちょうど今頃、この演劇は東京で上演されているはずだ。
どうだ、どかんどかんくるだろうか? ちょっと見当がつかない。

別役実が題材にしているのはもちろん「不思議の国のアリス」。
いつの世にも「不思議の国のアリス」に惹かれる御仁は数多いる。
どういうわけかぼくには遠い。「アリス」と聞いただけでへなへなと腰くだけになってしまう。
この遠さ、何故だ? よく判らない。何が気に入らないのか。

2000年12月、静岡芸術劇場でSPACが『不思議の国のアリス』を上演した。
物語は間違いなくルイス・キャロルのアリス。心配ご無用、ポストモダンな戦略で仕掛けたタイトルではない。そのまんまアリス。
歌舞伎仕立てのアリスでもなく、能を擬したアリスでもなく、ギリシャ悲劇と融合させてキマイラ状態にしたアリスでもなく、谷村新司の歌が背景曲に使われることもない。
SPACのアリスである。

演出はSPACの俳優、竹森陽一。この人はSPACのレパートリー『シラノ・ド・ベルジュラック』のシラノ役で、「芝居者の心意気」を感じさせる実にイカス演技をしていた。
ぼくはあれこれの公演会場で、たびたび竹森陽一の姿を見かけることがあった。SPAC主催の公演はもちろん、白石加代子の一人語り「百物語」にも来ていた。真面目な人なのだろう。
普段着の竹森陽一は、いつもわびしさのようなものを漂わせている。くそ、なんでこんなことになっちまったんだ、ろくなもんじゃねぇぞ俺の人生、と呪詛しつつ朽ちてゆくような印象。
頭髪の量にも「受難」の趣があって、その辺、ぼくは共感する。
竹森陽一の風貌には「パッション」が滲んでいる。鈴木忠志演劇の「殉教者」。くそ、なんでこんなことになっちまったんだ、ろくなもんじゃねぇぞ俺の人生、と呪詛し続ける。ちょっと違うかな。

いい演出家はおうおうにしていい俳優でもあるが、その逆は稀である。だから竹森陽一演出に特別期待していたというわけではないけれども、この芝居は観ておかなくてはと前々から思っていたのだった。

会場の受付で座席表を見せてもらうと、当日券は10席くらいしかなかった。えー、ほとんどソールドアウト、とぎょっとしたが、実際には観客数は120程度だった。
観客数と演劇の質は比例する関係にはないのに、ついつい「客の入りが悪い」とベタな常套句を使ってしまいそうになる自分を戒める。

演じられたのは主に「帽子屋のお茶の会」の場面である。
帽子屋や三月ウサギたちとアリスとのナンセンスなやりとり。それからトランプの女王が指揮するアリスの裁判。

ぼくは竹森陽一が演じたシラノを観て以来、ひょっとしたらこの人は鈴木忠志演劇と距離を持っているんじゃないかとも考えていた。
竹森陽一は鈴木忠志的様式よりも「特権的肉体」なんてものを実はいまだに信奉していて、交換不可能な俳優の個が物語を牽引してゆく演劇を密かに指向しているのではないかと。
つまり鈴木メソッドからはみ出す部分を持った背教者。それゆえ「殉教者」の栄光が翳り、わびしさがまとわりつく。

うーん、期待しないと言いつつ、十分期待していたじゃないか。→AyameX

でーも。
とんだ思い違いでした。
『不思議の国のアリス』、それは、
SPAC/鈴木忠志の定石を外れることのない神経症演技の構造物。表情の変化に乏しい一点凝視型。感情の起伏が掴みにくい平坦な台詞回し。女優たちはいつも怒っているみたいで魅力がない。
さながらネクラ(死語?)な小劇場演劇スキルのカタログ状態である。俳優たちの奇怪な身振りや発語法に、そうそう、こういうのあったな、と既視感の連続(「タイニー・アリス」ではあまりお目にかからなかったけど)。帽子屋の演技に桜井大造をオーバーラップさせるオノレの「ルックバック」に我ながら舌打ち。チッ。あららら、あの人、目が真ん中に寄っちゃってますよー。大丈夫ですか?

滑稽さだってあるのにな。どうして笑えないんだ?
例えばマドロススタイルの海亀が唄い、その歌に合わせて三月ウサギと眠りネズミが踊る場面。
なんと海亀くんはサティのピアノ曲で唄う。当然ながらすこぶるスローテムポ。変。すごく可笑しい。かなり莫迦莫迦しい(昔、斎藤晴彦がサラサーテの「ツィゴイネル・ワイゼン」に歌詞をつけて唄っていたけど、あれのパロディになっていたのかもしれないな)。
こりゃ使えそうだな、よし、いただきだと思った。だから直感的にはここは「どかんどかんくる」場面なのである。それなのに晴れ晴れと笑えないのは何故だ?

みもふたもない言い方だけど、俳優が神経症演技で「いっぱいいっぱい」だからかな。
しかも「憑いていない」のがバレバレ。

誤解のないように。神経症演技とは演技者自身が「神経症」ということではない。
「本物」がそれをやると爆発的な効果をもたらすが、その筋の演技者はコントロールが難しい。
神経症演技とはあくまでも「偽物」による「型」である。
神経症演技は観客の神経を脅かし圧迫感がキツイが、「型」演技であるがゆえの面白さも確かにある。
それは次のような局面で発生する。
型(器)に、その容量を上回るナニカが投入されたため、型が完璧であるにもかかわらず、自壊してしまう瞬間。「偽物」が「本物」に転ずる。すなわち「憑いた」状態。
演者はシャーマン、演劇はリチュアルとなる。警告シマス、制御不能!

「演劇なんかやる奴はみんなオカマだ」から、精神に過負荷をかけてやれば壊れる(割れる)。その体験は本人には強烈(「わたしは変わった!」)で、目撃者にとっては忘れがたい記憶(「こいつイカレちゃった!)となる。でもたいがいは一度だけ、それも観客のいない稽古場で事件は起こる。「劇的狂気の力」なんてそうそうお目にかかれるもんじゃない。リチュアルが結実するなんてことは本当に稀。ましてやそれが舞台で現象したとなるとまさに「奇跡」としか言いようがない。
だからぼくはSPACの舞台を観ながら、「あーあ、また狂ったふりをしてらぁ」と意地悪く思ってしまうのだ。
SPAC公演『不思議の国のアリス』は、
2000年12月8・9日、静岡・静岡芸術劇場で上演された。

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