Notes / Post-apocalypse #003 Ayame


世界のひとびとが見ているまえで、ユートピアは自分自身を喰らい尽くし、何もなくなった不毛の場所では、無垢な卵の殻のように、新しい読本の半円と点でできたイラストがくっきりと浮き上がりはじめたのだった。

───────ドゥブラヴカ・ウグレシィチ『バルカン・ブルース』

作品解説

デッド・ロード』は『銀の牙』に登場する小林というサイコ野郎を再設定する目的で書きはじめたのだが、当初のもくろみは稽古初日からはじけとんでしまった。 いきなり写裸ドモンが演ずるコンビニの店長(その原型は当然、小林なのだが)のキャラが立ってしまったのである。
いやはや、十六年の長きに渡り抱き続けた舞台に立ちたいというドモンの情熱は凄まじいものだと改めて恐れ入った。手のつけられない暴走ぶり、自らを演じるがごとき怒濤のリアリティ。座員一同、真剣に「これって芝居じゃないかも」と思った。ぼく自身うかつにも、これはいけるなと思ってしまったのだ。以後、『デッド・ロード』は『銀の牙』とは全く異なる作品になってゆく。
この劇に笑える感覚が健全なのか、笑えないほうが健全なのか、なんともいえない。作者としては笑ってもらおうと書いているのだが、「これがウケちゃったら、次ぎ、書けねえな」という危惧もあるのだ。
『デッド・ロード』はシリーズ化が決定していて、既に二作目が書き上がっている。このシリーズはドモンが一人でも演じられるような形にして、各地の演芸場やいかがわしいホールなんかに出演させようかと思っているので、うちの宴会の余興に来てくれ、なんて方、ぜひ劇団まで連絡下さい。ドモンだったら、お安くしときますよ。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

その昔、「殺人」は犯罪者が登って行く「犯罪の階層」の最上部に位置するものであったように思う。
些細な嘘から始まり、万引き・スリ・詐欺の前座、つぎに強盗・暴行・麻薬取引のような二つ目を経て、真打ちとしての殺人があった。
社会に対応する反社会的な犯罪の出世街道やヒエラルキーが成立していたのである。
だからこそぼくらは、通俗ドラマで留置場や刑務所にたたき込まれた新参者が、部屋のボスが訊く「おい、おめエは何をやらかしたんだ」という言葉に、「殺しです」と返す答えに一同が「へへーッ」と感服するシーンを違和感なくのみこめたのだ。
ところが昨今の殺人者は、最初から頂上作戦である。修業も経験値も関係なく、こどもたちの犯罪デビュー戦がいきなり殺人とくる。
いや、メディアが報道していないだけで、初犯殺人者にも前兆というか、なんらかの犯罪修業はあるのかもしれない。やはり「現代の殺人」のイメージは、メディアの作用によって作られてしまったものなのだろうか。
いま、ぼくたちの社会で何が起きているのか。

N/P#002でも書いたが、『デッド・ロード』の主題は、加害者(殺人者)に犯罪という自覚のない殺人である。動機のない殺人、あるいは動機不明な殺人を取りあげている。

『デッド・ロード』に登場するコンビニの店長は、良心の呵責などとはまるで無縁に殺人を犯す。何の抵抗も感じることなく人を殺す。殺人をくり返すが、犯罪を犯しているという意識は全くない。しかし店長は殺人を楽しんでいるわけではなく、殺人を賞賛するものでもない。そして殺人によって店長が得る利益は何もない。例えば強盗殺人であるとか保険金殺人であるとか、こうした殺人はいずれも加害者が金銭の収奪を意図して起こすものであり、殺人は目的を達成する途上で遂行される一手段でしかない。だからそれは、殺人である必然性はない。だが店長自身は、彼の行為はやむを得ない殺人、それ以外の手だてがあり得なかった殺人だと思っている。
店長は精神異常者だろうか。
店長は積極的に社会とコミットしようとしている。社会風俗を語り、世界情勢を憂慮し、大局を論じるが、常に強迫観念にとらわれている。社会とつながらなければならないという思いが、自らを圧迫してゆく。店長が抱く不安は具体的であり、彼が描く世界の行く末のシナリオは、仮想ではあるが妄想ではない。
しばしば無意識に意味不明な事を口走ってしまうが、彼はそれが神のメッセージだとか、自分にしか聞こえない何者かの呼びかけだとは思わない。彼は現実的な人間だからだ。けれどもそれが自己の内部から発生した「何か」だというところまでは理解していても、その「何か」を追求しようとはしない。
殺人に至るまでの店長の思考は、それなりの手順を踏んでいる。ということは論理的には店長は「健全」なのだろうか。

殺人者が金銭的な利益を考慮しない殺人を、二種類に区分してみる。加害者と被害者の間に個人的な関係性が成立している場合と、そうでない場合。怨恨が原因の殺人や、険悪な対立関係にある者たちが起こす殺人は、すべて前者のケースである。それらの殺人は加害者/被害者の関係性を清算する、あるいは関係を終結させるための手段である。不可解な事ではない。ぼくたちは多くの物語でそういう事例に接してきた。たいがいは「愛憎」という言葉を発見するのだが。

ぼくが言及しようとしている殺人は、加害者/被害者の間に関係性がまったく存在しない、または関係性がきわめて希薄な殺人である。

無差別殺人は、殺人自体が目的化された行為である。殺人者にとって殺害する対象者は不特定で、誰でもかまわない。このような殺人は、加害者と被害者の間の個人的な関係性を必要としていない。
だが、ぼくはこう思うのだ。殺人者は現前する実体である被害者の存在は黙殺しながらも、社会もしくは共同体という観念は強く意識している。つまり加害者は被害者とは関係を取り結ぼうとはしていないが、社会に対しては関係したいという激しい欲望を持っているのではないか。

しばしばシリアルキラー(連続殺人者)は犯行をくり返したあげく、警察に追いつめられ、逃げ切れないと判った時に自死を選ぶ。それはなぜだろうか。
ぼくは、彼らは社会が彼らの行為に評価(判決)を与える事態を拒絶しているのだと考える。だから警察が包囲する最終局面の中で自殺する殺人者たちは、そこにいたるまでにいかに異常な行動をしていようと、どこかで自分と社会との結節を意識しているはずだし、それは微かだが、社会との関係を保持しているはずなのだ。

誰でもいいから殺してやりたいと考える者は、最終的には自らを殺す(自殺)という形でこの衝動に決着をつける。加害者は二人称(あなた)との関係性を必要としていないから、殺す対象が自分自身であってもかまわない。殺人者と自殺者は、本質的なところでは同じなのだ。
どうもアメリカでは自殺は重大な犯罪であるようだが、そう考える倫理観は健全だ。我が国では自殺者はどう解釈されているのだろうか。たぶん犯罪者と見なされることはないように思えるのだが、どうなのだろう。

衝動的な殺人はなんの予告もなく発生するように見えながら、その実、そこまでに至る長いプロセスがある。ただしこの場合も加害者/被害者の間でプロセスが形成される必要はない。古典的な衝動殺人は加害者/被害者の濃密な関係性の上に成り立っていたが、現代の衝動殺人は、原因が個人の関係性の中にはない。それは殺人者個人の内面に殺人の動機を見いだすことが困難になっているということだ。
現今の殺人者には「殺す」という明確な意志、「生命を滅する」という決意がどうしようもなく欠落している。
それは精神病者が「殺せと私に命じる神の声に従って殺しました」と言うに等しい。
かといって彼らが殺人の正当性を主張しているかといえばそうでもない。
ほとんどの殺人者は精神異常者などではないのだ。

なにがおきているのだろうか?

殺人者を抑圧していたのは、彼らが所属している社会である。彼らには被害者となる個人は見えなくとも、社会は見えている。
そして抑圧からの逃走線として引かれるのが殺人という行為なのだ。

なにがおきているのだろうか?

ぼくは、現在、見えない戦争が継続されているのだと考えている。家庭も学校も路上も、ぼくたちを取り巻くありとあらゆる場所がバトルフィールドであり、加害者/被害者の間に関係性がまったく存在しなくとも、いつでも殺人が起こり得る。
サラエボの町で起きていた出来事は、−ある日、突然、なんの脈絡もなく、いつもの通りであなたは撃たれ、湿った舗道に血を流す。いったい何者が何のためにあなたを狙撃したのか、誰も判らない。それは、ただ、起きたのだ−ぼくたちの社会のメタファーに他ならない。



『シリアル・ママ』

『デッド・ロード』を構想してゆくにあたって、ぼくの念頭にはジョン・ウォータース監督の映画、『シリアル・ママ』があった。カルトフィルム『ピンクフラミンゴ』で知られる怪監督ジョン・ウォータースと、これまたカルト女優への道を歩みつつあるキャサリン・ターナーというマニア垂涎の組み合わせで製作された『シリアル・ママ』は、平穏無事な郊外の住宅地でふいに発生する連続殺人のプロセスを、見事に解析した傑作である。
中流家庭の良き主婦、良き母であるキャサリン・ターナーは、なにゆえ連続殺人鬼と化すのか? 一見の価値あり。

1999.1.30

▲back