Notes / Post-apocalypse #004 Ayame


これは救済ではない。        
進化とは苦難への更なる道のりである。

───────KONORI sp. 『輪廻の蛇』



>上演記録

劇団水銀8N+シアター・オブ・ザ・サイキックニューエイジ制作の「演劇の孵化 Vol.2」は、1999年1月31日、静岡市七間町の珈琲屋「ういんな」で行われた。演目は、演劇『デッド・ロード −店長の憂鬱、あるいはアニキ誕生の巻−』と、鷹匠訓子(KONORI)が率いるバンド、KONORI sp. のライブがセット。18時と20時の2回公演であった。

『デッド・ロード −店長の憂鬱、あるいはアニキ誕生の巻−』
  店長:写裸ドモン
  ミスター白石:隼迅太
  客A:鮎都
  シューイチ:いけがみまどか
  客B:三遊亭遊史郎

前回の公演から続けて来場した観客は、「Vol.1」とは全く異なる内容に唖然とした。『デッド・ロード』。客席は水をうったように静まりかえっている。写裸ドモン演ずるコンビニの店長のキレ者ぶり。並ではない。笑っていいのか否か、観客はとまどった末に、沈黙を選択した。

『デッド・ロード』では、観客と店長(俳優)の距離感を意図的に不明瞭にした。唐突に劇が始まり、唐突に劇が終わる。通常の劇場での段取り、−1ベルが鳴り、開幕のベルが鳴り、客席が暗くなり幕が上がる−は一切排除されている。観客は観客という立場を自覚する機会が与えられていない。観客であることの主体性を保つことが出来ない観客は、言うなれば事件の目撃者である。目撃者であるということは事件(演劇)の一部である。観客は、店長というか、写裸ドモンの私的な世界観に呑み込まれ、客席自体が舞台と同化しているため、舞台を構成する部分(疑似俳優)としてどのような身振り(反応)をするべきかを決定できなかったのである。

たぶん小利口な俳優が店長を演じていたのであれば、観客はくったくなく笑えただろう。どうですか、ボクはこんなおバカなキャラだって演じることが出来るんですよ、これが演技って奴です、と目一杯アピールする。観客は不安感を誘発されることなく、安全圏から店長を観察する。そう演出するべきだったかもしれない。親切とは言い難い舞台であった。

しかしそんなことはおかまいなしに、一人腹をかかえて大笑いしていたのは、写真家・現代美術家の松野崇氏。終演後の役者紹介では、松野氏は写裸ドモンに「よかったぞー!」と大音声。ドモン、「ありがとーございます」と声を裏返らせて絶叫し、感無量。
ありがとうございました、松野崇先生。

『デッド・ロード』はドモンの十六年ぶりの舞台となった。ドモンは劇団水銀8Nの前身、「劇団熾天使館(後に死天使館と改名)」の1978年の創設メンバーである。
東京の専門学校で写真を学びながら熾天使館の演劇活動を行い、旅公演にも参加した。
座員からは役者としてよりも、料理の腕が評価され、もっぱら炊事担当者として活躍したが、当時からサバイバルナイフで料理をする奴として奇異の目で見られていたことも事実。今にして思えば、ただのアウトドアー野郎(ドモンはボーイスカウト出身!)だったのだろう。

八十年代に入りドモンは職業カメラマンとなる。ファションショーの撮影や女性誌のモデル撮影が主な仕事であった。まだ見習いの時分は、きれいな外人モデルのおねーちゃんに足蹴にされたり罵倒されたり、随分と辛い目にあったようだ。夜中に「ウォークマン、スタジオで盗まれたー!」と相当に狼狽した口調で電話をかけてきたことはいまだにハッキリ憶えているぞ。ウォークマンが発売されたばかりの頃で、ドモンはいちはやくそれを買ったことをさんざん周囲に吹聴していたのだった。たしか十回ローンで買ったはずだ。いや、笑い事ではなく、カメラマン見習いの給料なんてものは、なにかのたたりではないかと疑いたくなるくらいに安かった。自慢のウォークマンは、わずか数日で行方知れずとなった。
ドモンはひとしきりモデルの外国人女性たちの悪口を言いたてた後、「東京は音がないと暮らしていけないよ。寂しいところだね」という名言を残して電話を切った。半月後、またドモンから電話がかかってきた。前にもまして混乱している。「カラカラー、カラカラー」と言うだけでいっこうに要領を得ない。ようやく意をまとめてみると、またもや悲劇。ローンでカセットデッキを購入したはいいが、いざスイッチを入れて操作しても、機械の中でカラカラと虚しい音がするだけで、テープが回らない。いきなり不良品である。申し訳ないがぼくは笑った、受話器を置いてから。

それからこんなこともあった。やはりドモンが見習いカメラマンの時のことだ。ぼくたちの劇団は静岡でテント興行をうった。公演の二、三日前になってドモンから電話がかかってきた。車を買ったから、公演当日、静岡に行けるので自分の役を用意しておいてほしい、とドモンは言った。なかなか味のある論法である。風が吹けば桶屋が儲かる式の言い回しだ。ドモンが車を買うと、台本に新たな登場人物が付け加えられる。なぜかドモンの要求はすんなり通った。
だが公演初日、ドモンは来なかった。来られなかったのだ。ドモンが買った中古車は、箱根の坂道を登ることが出来ず、涙を呑んでUターン、東京へ戻ったのだった。ドモンが買ったのは本当に車だったのだろうか?
次の日の昼過ぎ、ドモンは50ccのバイクでやって来た。ドモンの災難の話にぼくたちは笑った。「それで、俺の役は何なの?」とドモンが聞く。「お前の役は『オナノイドG1号』というロボットだ」とぼくは言った。誰も笑わなかった。ドモンは「難しい役だね」と唸り、さっそく稽古を始めた。
舞台がハネた後の酒宴にも残らず、ドモンはその日のうちに東京へ帰っていった。もちろん50ccの原付で。
「じゃあ明日はオナちゃんの役はナシでいくワケ?」と劇団員の松原美保乃が言った(※オナちゃんというのは写裸ドモンの愛称)。興行は三日間、翌日も公演はあったのである。

ちなみに楽日には、当時演劇部に所属する女子高生だった鷹匠訓子のグループが観劇に来ていて、ぼくは彼女たちにうちあげに残って酒を飲んでいけと執拗に迫ったそうだ。「わたしたち門限がありますから」と鷹匠がやんわり牽制すると、ぼくは「俺がきみの家に電話をして、ご両親に事情を説明しよう」とまで言ったらしい。そんなんで親が納得するか? 一体なに考えてたんだ、俺。全然憶えてない。

ついでだから、ちょっと触れておくが、ぼくたちが酔っぱらって芝居小屋の中で夜更けまで大騒ぎをしていたちょうどその頃、すぐそばでは凄惨な殺人事件が進行していた。それについてはまた別の機会に書くつもりだ。

それから間もなくドモンはフリーのカメラマンとして独立する。役者との二足のわらじはしだいに困難になり、1984年、三ヶ月に渡る劇団水銀8Nの移動公演『砂の城』への不参加を機に、演劇活動を断念する。これが「演劇の孵化 Vol.2」のチラシでドモンが言っている芝居である(※正しくは「維新派」の俳優が観たのは京大西部講堂で行われた公演)。そしてまた劇団水銀8Nも長い沈黙に入る。

昭和から平成になり、バブルが始まりバブルがはじけ、ノストラダムスが予言したアンゴルモアの年になるまで、写裸ドモンはずっと舞台に立ちたいと野望していたようだ。その間、ドモンは雑誌のインタビュー記事の写真撮影を中心に仕事をしていた。ぼくは時々、ドモンが仕事の折りにハリウッドスターと撮った記念写真を見せてもらうことがあるが、そんな中に一枚、ジョディー・フォスターとドモンが並んで写っている写真があった。最初ぼくはジョディー・フォスターの隣に立っている男が誰なのか、冗談ではなく判らなかった。「羊たちの沈黙2」のパブリシティかと思ったくらいだ。そいつの眼は完全にイッちゃってて、二〇〇万光年くらい先を見ていた。恍惚とした笑顔が狂気という言葉を索引し、ぼくはなぜ欧米人が日本人の笑顔を不気味に感ずるのか、その気持ちが理解できるように思った。

当節、ドモンのごとき愚か者は少なくなってきている。
いつだったか、ドモンは失恋の痛手から立ち直れぬまま、仕事でパリに行った時の話をしてくれた。精神的にも肉体的にも憔悴しきっていたドモンは、撮影の合間に実弾射撃場へ通った。なぜまたそんな場所に行ってしまうのか、そこのところがいかにもドモンなのだが、とにかく実弾が入ったピストルを撃ちまくった。しかしそんなことで憂鬱がはれるわけではない。ふとドモンはなんの気なしに、銃口を自分のこめかみに当てた。イスラエル製の拳銃、ジェリコ。これで引き金をひけば俺は死んじゃうんだろーなー、と思ったそうだ。それから、更に憂鬱な気分になり、ドモンは25m前方の射的を撃った。

「人間って簡単に死んじゃうんだよねー」とドモンは言い、ぼくは大笑いした。それは笑うべきところではなかったかもしれないが、深刻になるシーンでもなかったはずだ。ドモンも笑われて憤慨したりはしなかったし、『デッド・ロード』の店長のように「怖いよなー」と茫洋としただけだった。

さて、写裸ドモンはまともだろうか? 良識ある人間なら自分の頭にピストルを向けたりはしないものだ。だからぼくにはドモンがまともだとはとても思えない。ジョディー・フォスターとのスナップ写真に露呈していたような狂気と同居している。でもドモンは鉛玉を自分の頭蓋骨にぶち込んだりはしなかったし、これからもしないだろう。そして決して他人の脳髄を吹っ飛ばしたりすることもないと断言できる。
ドモンが正真正銘のサイコと化し異常犯罪への道を突っ走るのを押しとどめているものは何なのだろう。決まってるだろ、それは演劇さ、と言えば恰好はいいが、たぶんそうではない。

ぼくは演劇は愚行だと思っている。まともな人間がやるものじゃない。ドモンのような連中がやればいいのだ。恢復不能な連中が。でも、まともではないからといって、奴らは病んでいるわけではない。精神が歪んでいようと、それは彼の精神がそのような形をしているだけで、「病み」とは違う。人を殺人へとかり立てるのは私的な狂気ではない。実弾が装填された銃の引き金をひかせるのは精神の「病み」であり、おぞましいことにそれは人から人へ伝染するのだ。

昨今、演劇はある種の人々−つまり病んだ人々−にとって「癒しの装置」になっている。舞台に立つことによって内的軋轢を減圧し、精神の崩壊に歯止めをかける。彼らが発散する物は様々だ。日常のストレスであったり、歪んだ性的妄想であったり。それを背負わされる観客はたまったものではない。ぼくが腹立たしいのは、そうした演劇には明らかに「意義」があるということだ。そこには開放という言葉がつきまとっている。ある種の人々は舞台で確実に「救われている」のだ。もちろんその後、おもむろに立ち去るのだが。舞台は治癒空間ではない。観客はセラピストではない。真に開放されなければならないのは観客であり、断じて俳優ではない。

ぼくはこの二、三年というもの、静岡のアマチュア劇団の公演をできるだけ観るようこころがけてきたが、病んだ人々の徘徊がおびただしい。健全な社会生活を営みながら、潜在する「病み」を演劇の場にぶちまける。見た目では判らないはずだ。ドモンのような異形が現れないから。でもマジでこいつやばいな、と思ったことが何度もあった。こいつ、条件がそろえば人を殺すだろうな、と。この場合、彼らが正真正銘のサイコと化し異常犯罪への道を突っ走るのを押しとどめているものは演劇です。やれやれ。以前、茶飲み話で、劇団は文化庁からではなく厚生省から助成金をもらえ、いまや演劇活動は医療行為である、と宣言したことがあるが、笑い事ではなくなってしまった。

楽屋でメークをしながら「めちゃくちゃあがってるよ俺、十六年ぶりだもん」と何度もつぶやくドモンを見ていて、「あー、こいつにとって演劇は救済なんかじゃないんだなー」とつくづく思った。救済されなかったからこそドモンは再び舞台を踏むことになったし、それはぼくにしても同じことなのだ。

公演終了後、松原美保乃(現オオハシジュンイチ)が言った。「今日のはあんまりコクなかったんじゃないの。オナちゃんの演技、ちょっと変わったね」。うーん、充分ギトギトだったと思うけどな。


鮎都につづき、またしても十六歳の少女が舞台を踏んだ。いけがみまどかは怪人ドモンを相手に初々しい演技を見せる。今後『デッド・ロード』は、店長とシューイチ(まどかが演じる少年)を軸に展開してゆく。
ところでどういう前世の因縁があるのか、まどかとドモンは相性がいいらしく、稽古場でも楽屋でも実に楽しそうに談笑していた。
ぼくはそれを見るたびに、映画の一場面を思い出す。ボリス・カーロフが主演した『フランケンシュタイン』。フランケンシュタインの怪物が、川べりで幼い少女と無邪気に遊ぶシーンである。まどかとドモン、それぞれの役割は言うまでもない。

鮎都。早くもコアなファンをゲット。T・Wさん32歳、五児の父である。Wさんはインターネットに関連した仕事をしていて、鮎都のホームページ開設の噂が流れている。

隼迅太は、自前の役、自前の台詞、自前の効果(中島みゆき『時代』)でドモン・ワールドに乱入。暗黒舞踏家であり腹話術師であり朗演家であり覚醒剤追放キャンペーンのナレーターという、謎の人物を演じる。店長不在のスキをついての独り舞台。実は台本には迅太の役は書かれていない。この状況って何かに似てるぞ、と思ったら、昔の写裸ドモンだった。「当日行きますから、役、お願いしまーす」。でも全部自分で作ってくるんだから立派だ、迅太。

コンビニの客の役で登場した三遊亭遊史郎は板についた芸能人ぶりを見せる。役作りについては、デューク浜地を意識したという裏情報あり。誰も知らないか、デューク浜地?



ライブ記録

KONORI sp.のライブ“歴史の港”で演奏された曲目は以下の通り。

  1. 治癒の森へ
  2. プロローグ
  3. 歴史の港
  4. 民族の十字路
  5. 輪廻の蛇
ライブメンバーは、

二年ぶりにライブを行ったKONORI sp. は、KONORIの超絶的な表現力で、観客ばかりかスタッフ・座員をも圧倒した。
ボーカル/ギター/ベースのトリオは初めての編成であったが、杉山クニトシの音響のクオリティは高く、PAを入れたライブには不向きかと危惧された会場にも、冴えた音空間が現出した。
ほとんどカルトと化していたKONORI sp. だが、今回のライブがひとつの転機となりそうである。
隔月のライブが決定。

KONORI sp. については場を改めて詳細に記したい。

1999.2.11
▲back