Notes / Post-apocalypse #005 



演者解説
三遊亭遊史郎は横浜出身。三遊亭小遊三門下に平成三年入門。四番目の弟子にあたる。現在は二ツ目、落語芸術協会所属。前座時代に師匠からもらった名は「三遊亭おたく」である。この名のためにいわゆる「オタク系」の人種と思われていたが、趣味といえば週刊プロレスの購読ぐらいのもので、いたって傾向は淡泊。
遊史郎は入門以来、古典落語のみを演じてきた本格派である。したがって『祝言芝居』は遊史郎の初めての新作オリジナル作品ということになる。
今回、三遊亭遊史郎とわたし(鈴木大治)、すなわち演者と作者が意図したのは、新しい古典落語の創造だった。江戸の風俗や情緒など、今では失われてしまったかのような感のある異世界を、現代に招喚することを目指した。我々の目論見は充分に達成されていると自信を持って言える。
作業としては、プロットとストーリー展開をわたしが書き、「物語」として遊史郎にわたす。遊史郎はそれにサゲ(落ち)を加えて「落語」に仕立てた。


作品解説
ロスト・ロード』は刑事の物語である。しかし刑事とは一体いかなる人種なのか?
犯罪者は事件をつくり出している。自らスタートをきって走り出す。そして警察官は確かに犯罪の防止に貢献している。だが、刑事だけは自発的になにかをつくり出すことができない。犯罪や犯罪者による舞台のお膳立てがあってはじめて、刑事は登場を許される。
刑事はなんらかの事件が起きてからはじめて動き出すのである。刑事は遅れてスタートする。彼はいつでも出遅れている。刑事の行為は、常に犯罪に遅れをとっている。犯人の背中を追うだけであり、犯人に追いついた時、刑事の行動は終了する。彼は決して犯人を追い越すことはない。
テレビドラマの刑事たちがどこかまぬけに見えてしまうのはそのためだろうか。
犯人に追いつく直前の状態を維持しつづければ、刑事は刑事でありつづけることができるだろう。しかしこの場合、刑事は無能の誹りを受けざるをえない。
こうした刑事の性質に、日本演劇史上、最も深く言及していったのが、つかこうへいの『熱海殺人事件』であった。つかこうへいが七十年代に描いた刑事たちは、犯罪の存在がなければ自立できない自分たちのいらだちにどっぷりとつかっていた。

北野武が彼の一連の映画で演じてみせた刑事は、明らかに犯人を追い抜いていた。しかし犯人より一歩前に出たその時点で、刑事は犯罪者に転位していた。

文学史上最古の推理小説(物語)は何だろうか? それはギリシア悲劇の最高峰『オイディプス』である。テーバイの王、オイディプスは、妻の前夫でもある前王を殺害した犯人を追う。オイディプスは殺人事件を捜査する刑事であり、探偵である。彼は真相の究明に執念を燃やし、そしてついに犯人をつきとめる。その瞬間、悲劇は起こる。世界は反転する。追う者と追われる者の逆転。

刑事が犯罪者を追い越し、なおも刑事でありつづけることはできないものか? これが『ロスト・ロード』の主題である。

犯罪者は事件を解説したりはしない。彼は創造者であって、解説者ではないからだ。
事件を分析し解析するのは刑事の仕事だ。刑事は物言わぬ犯罪者の代弁人として「物語(事件)」を読み解いてゆく。彼は事件を推理し、その推理に合致する者を犯人として逮捕する。だが、刑事は批評家にまでは至らない。批評は作品の質を保証する副次的な創造行為だからだ。推理を検証し、その精度を査定するのは裁判所であり、事件を値踏みし評価するのは裁判官なのである。

ぼくは犯人と刑事のありようを、モダニズムとポストモダニズムの関係になぞらえてみた。『ロスト・ロード』のコンセプトはポストモダニズムである。
ポストモダンな作品が、オリジナル(モダン)を凌駕するような事態はありえないものだろうか?

もしもこの『ロスト・ロード』の世界像を完全に理解しようと思うのであれば、『デッド・ロード』シリーズを観なければ判らないだろう。『ロスト・ロード』は『デッド・ロード』の引用の上に成り立っているからだ。
『ロスト・ロード』の登場人物の一人、写裸ドモンが演じるコンビニの店長は、『デッド・ロード』の主人公と同一人物である。『ロスト・ロード』のシークエンスは、『デッド・ロード』のプロットを引き継いでいる(脚注として『デッド・ロード』の一場面を挿入した。もちろん脚注はポストモダンのお約束である)。つまり『ロスト・ロード』の物語(世界)内で発生する事件の因子は、『デッド・ロード』という別の物語の中にあるのだ。中原という刑事は事件を追う。起きた事件すなわち結果を、原因に向かってさかのぼる。だが因果律が破綻した世界で、中原はどのようにして犯罪の動機に至るのか。『ロスト・ロード』には終着地点がないのである。
しかしそれでもなお、中原は「何かが起きている」ことに気づいてはいる。確かに事件があるからだ。

従来の犯罪捜査ではオウム教団の暴走を阻止することはできなかった。そして現代の司法は無動機犯罪を裁けない、社会は無動機犯罪を防ぐことができない。

中原は自らの「系」の外部に存在するものにたどり着かなければならない。動機なき犯罪の動機を理解しなければならない。
そのためには、想像力を持たないこと。仮定法を用いないこと。現前する事象に疑問を抱かず、不変性に対しては疑問を忘れないこと。土の上のリンゴが空中へ浮かび上がるさまをイメージしないと同時に、リンゴが樹から落ちるさまもイメージしないこと。

いずれ観客も記憶の視野の中で『ロスト・ロード』と『デッド・ロード』のザッピングを要請されることになるはずだ。
1999.2.27
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