Notes/Post-apocalypse #008-3 



KONORI sp.
 1992年11月3日、イギリスのレーベルDURTROよりリリースされるMAGICK LANTERN CYCLE(以下、MLC )のCDのマスタリングに立ち会うため、ヒースロー空港に降り立ったKONORI(鷹匠訓子)の旅行鞄には、一本のデモテープが入っていた。

 渡英する数日前、地元のケーブルテレビ局がMLCのライブを収録した。番組の撮影会場にアカリエスピーニョがふらりと現れ、「あのお、これ、作ってみました」と要領を得ない口調でぶつぶつ言うと、カセットテープをKONORIに手渡した。

 1990年、MLCはMAGIN RECORDSからスプリットアルバムをリリースする。その発売記念のライブを観たアカリエスピーニョはこう述懐する。

「衝撃でしたよ。レコードの音と演奏が完璧に再現されていたから。レコーディング技術で作った曲じゃないんだって判って、しばらく呆然としました。スゲエ人たちがいるな、こいつは本物だって思いましたね」


 イギリス滞在中のKONORIのガイドは、朋友DAVID TIBET(CURRENT93)だった。KONORIはTIBETと共にソーホーのスタジオへ行き、チャリングクロスで古書を渉猟し、グリニッジのフリーマーケットを見物し、小雨の降るブライトンの海岸通りを歩き、TIBETの父親の案内でブロンテ姉妹が生涯をすごしたヨークシャーの寒村を訪れた。詩神はほほえむ。

 KONORIはTIBETとの思い出を歌詞にして、彼が暮らすマイルエンドの、インド系の一家が経営する雑貨屋を兼ねた郵便局から何通もの手紙をアカリエスピーニョに送った。KONORIの帰国後、二人はKONORI sp.を結成、翌1993年に7インチのアナログ盤『MILE END / GUY FAWKES DAY 1992』を発表する。


 劇団水銀81/2(現、水銀座)に所属する俳優のKONORIは、80年代の後半に劇団が活動を停止して以降は、オルタネイティブミュージックバンドのMLCにボーカリストとして参加していた。MLCは基本的にはインプロビゼーション(即興演奏)を指向するグループで、定められた楽曲を演奏する通常のバンドとは一線を画すものだった。

 政治の世界でも文化の世界でも、ジャンルの境界線が崩れてゆく時代の風潮の中、MLCは「越境する音楽、変容する演劇」というコンセプトを掲げ、コラージュ、カットアップ、サンプリングといったポストモダンな手法を音楽の場で展開していった。それを可能にしていたのは、KONORIの演劇的な身体であった。

 一方、アカリエスピーニョはプログレッシブロックやサイケデリックロックに傾倒してきた、緻密な楽曲作りを行うミュージシャンである。KONORIの本領が即興的・一回性の表現であるのに対し、アカリエスビーニョは際限のないレコーディング作業を飽くことなく持続させ、楽曲の堅牢な構造を構築する表現者であった。

 およそ二人の資質はかけ離れていたのだが、ポストパンク、あるいはグランジの精神性においては、完全に一致していた。すなわち、必要とあらば自らの作品を破壊することを一瞬たりともためらわない。


 KONORI sp.のファーストCDのレコーディングは、1994年に開始され、1996年まで行われた。

 その間、KONORIは健康を害する。1995年の初頭は特に芳しくなかった。微熱が続き、体は重い。一日中床に伏していることもしばしばであった。

 だがふと思いたち、KONORIは真夜中の公園を走りはじめる。おりしも桜の季節である。公園の桜の並木が満開になり、そしていっせいに散ってゆくその下を、KONORIは毎日走った。そこでKONORIは奇妙なものを目にする。
「幽霊。大勢いるのよ。わたしと一緒に走っているの。たぶん熱のせいか、ジョッギング・ハイのせいでしょう。別に怖くはなかったわよ、本当にいるわけじゃないって判っていたから。でもね、これはもしかしたら駄目かなって思った。わたしの体はかなり深刻な状態になっているかもしれない」
 『治癒の森へ』のデモテープを聴きながら、KONORIは一月あまり、深夜のランニングを続けた。『治癒の森へ』の歌詞が出来上がった時には、KONORIの体調は平常に戻っていた。

「1995年は大変な年だったわ。阪神淡路大震災、地下鉄サリンテロ。死者の年。もしかしたらわたしもその一人だったかもしれないって、今でも思う。でもわたしは生きている。あの時、幽霊たちと走りながら、わたしにバンドをやるための動機が出来たのよ。サバイバル。それがわたしのテーマ」

 『GUY FAWKES DAY 1992』も幽霊と縁がある。

 KONORIが泊まっていたTIBETのフラットのすぐ裏は、中学校だった。

「ここは変な学校だよ。共学校なのに教室は男女別なんだ。入り口だけ共用なのさ」とTIBETは笑う。

 学校と通りを隔てて、広いグレイブヤードがあった。ロンドン大空襲の死者たちが埋葬されている墓地を、早朝、KONORIとTIBETは散歩した。ときおり灰色の栗鼠が、カサカサと木々の小枝を揺らした。

 KONORIがロンドンに着いた翌々日、11月5日はガイ・フォークス・デイであった。その日は子供たちが日暮れてから公園や広場や空き地や駐車場に集まり、打ち上げ花火をあげたり、議会場の爆破を企てた首謀者ガイ・フォークスを模した藁人形を燃やしたりする。

 子供たちの歓声に誘われてKONORIが散歩に出ると、墓地のメインゲートの守衛小屋の前で、近所の住人たちが大きなドラム缶で盛大に焚火をしていた。
「どうしてそういう勘違いをしていたのか判らないけど、ガイ・フォークス・デイには幽霊たちが公園で輪になって踊るんだって、そう思っていたのよ。一晩中、陽気に騒いで踊る。それであの歌詞が出来たんだけど、でも後で調べたら、ガイ・フォークス・デイって全然幽霊とは関係なかったの」

 KONORI sp.の活動は当初スタジオワークに限定されていた。これはライブの否定ではなく、全ての楽曲をアカリエスピーニョが単独で創作していることから、ライブでの再現性に無理があったためである。結成から98年までにKONORI sp.は4度のライブを行ったが、その度にメンバーはめまぐるしく入れ替わり、ライブバンドとしてのスタイルは安定しなかった。1999年、バヤンがベーシストとして正規に加わり、今後はトリオの編成でライブ活動を行う見込みである。

1999.
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