Notes / Post-apocalypse #009 Ayame


辛けりゃよしてもいいんだぞ。        
またしばらく一座は休みにしたってかまわねえ。
俺たちは待てる。待つ身はなれっこだからな。 

───────弓場残光『月光鬼』


怪優・写裸ドモン、16年ぶりの復活!!
●新宿ゴールデン街の飲み屋でたまたま知り合った若い奴が「維新派」の俳優さんでさ、東京公演のために来ていたんだよ。
で、「俺も昔、役者やっていたんだよねー」なんて話になってさ、「どこの劇団ですか?」ってきくから「たぶん知らないだろーなー、水銀81/2って劇団」って答えたら、「えー、水銀81/2ですか、ぼく観ましたよ!」なんて言うじゃない。彼、水銀が1984年に大阪の梅田のホコ天でやった市街劇を観たようなんだよ。
でも俺、その芝居って出てないんだよね。ちょっとこう、しまったー、って感じがあった。それ以来、ずっとカムバックのチャンスを狙ってたんだ。
満を持しての登場かな。誰も待ってなんかいなかった? 冗談じゃないよ、俺のモンドな魅力を存分に見せてやるからな。あっ、「モンド」って響き、なんかいいな。写裸モンドに改名しようかな。
───────写裸ドモン


上記は1999年1月31日、『デッド・ロード −店長の憂鬱、あるいはアニキ誕生の巻−』のチラシに記載された文章だ。
今、静岡で一番(シズイチ)の役者は誰かとたずねられたら、不本意ながら土門土門エ門(旧名、写裸ドモン)の名をあげざるをえない。
こやつごときがという意味で「不本意」なのだが、この数年、静岡の劇団(一般名称)の演劇を観てきた俺が公正に判断して、この結論に達した。
水銀座が演劇上演を再開して一年になる。土門土門エ門は間違いなく芝居者(シバイモン)の「気配」を身につけやがった。
土門エ門の1999年は文字通り、芝居に明け暮れた。『デッド・ロード』シリーズが5作に『月光鬼』が「ういんな版」と「野外劇場版」で2回、あと『ロスト・ロード』と『広末亭奇談』と『双朱鷺雪葬儀外伝』にも出ている。つまり今年は全部で10本もの舞台に出演した計算になる(『デッド・ロード・デラックス ダイジェスト版』を含めれば11本)。

人が演劇をする動機はどこにあるのだろうか。
舞台に立ちたいという名状しがたい衝動にかきたてられる者は、繰り返し問う。
お前はいったい何のために演劇をやるんだ?
俺は芝居がやりたい、だからやる!
 ※土門エ門は絶対に「演劇」とは言わない・・・
それでは答えになっていないぞ。なぜ芝居をやりたいんだ?
俺は命かけてんだぞ、つべこべ言うな。

愚かな人間はときとしてとんでもないものに命をかけてしまう。高い金を出して汚れた下着を買う奴がいるように。命がけで演劇をやるとしたら、そいつは馬鹿だ。そんな奴は土門土門エ門だ。
いや、土門エ門は愚かではあるが、馬鹿ではないだろう。こいつが命をかけているのは、「演劇」ではなく「芝居」だからだ。
命がけでやる演劇は悲劇的だが、命がけでやる芝居は喜劇である。
芝居なんてくだねえもんに命をかける奴なんざ、げらげら笑っちまえばいいんだい。

土門土門エ門は与えられた役割を演じることができない。こいつは演出(他者)の要求通りに演技をするということができないし、またその気もない。
戯曲にも演出にも、演劇の芸術性にも奉仕しない。

『月光鬼』の劇中、土門土門エ門が演じる「土門土門エ門」はこう言う。
「拙者、男芸者ではござらぬ。お呼びなどかからなくとも、おのれの意志を持ってしてやって来るのでござるよ。」

土門エ門は俳優ではない。こいつは役者だ。こいつはこいつの流儀で演じるしかない。
役者は俳優ではない。俳優はれっきとした職業のひとつだが、役者は胡散臭さに包まれた「生き方」なのだ。俺は不本意ながらも、土門エ門が「芝居者の魂魄」を持っていると認めざるをえない。


20年以上も前、俺たちは演劇を始めた。
俺や風間かおりや土門エ門。鷹匠訓子はその頃は「白樺美智子」と名のっていた(現在の白樺美智子は二代目)。それから松原美保乃(大橋淳一)。
今と同じような芝居を演っていた。皆が演劇とは呼ばずに芝居と言った。
俺は芝居で身を立てようとは毛頭思わなかったが、芝居をやっていれば生きてはゆけるものだと思っていた。生活はおのずとついてくるものだと、なんの疑問も持たなかった。ようするに二十歳にも満たない俺たちは世間知らずで、世の中をなめていたのだ。
その頃の俺は愚かではなかったが、無知だった。俺は「演劇」について考え始め、少しずつ無知ではなくなり、そしてゆっくりと馬鹿になっていった。
思い出すだけで腹立たしい。俺は「革命家」を標榜する先行世代の演劇人たち、つまり大学のサークルや学生運動と連座して演劇とつながった奴らに囲まれて、「芝居者の魂魄」を失っていたのだ。

うすらぼんやりと大学へ進学して、それで暇になったから演劇でもやろうなんてえ了見の連中と一緒にされてたまるか。こっちは「おのれの意志を持ってして」はなっから道を踏み外すことにしたんでい。てめえらとは腹のくくりかたが違うんだ。
くそっ、なぜ当時そう言えなかったのだろう。

1984年、劇団水銀81/2は三ヶ月にわたる旅興行をすることになった。
ある者は学校を退学し、ある者はそのために離婚した。彼らは愚かだったが、馬鹿ではなかった。
俺は興行の決定を東京の土門エ門に電話で告げた。
おいおい、ちょっと待ってくれよ、それじゃあもう「遊び」じゃない、と土門エ門は言った。 遊び? その言葉に激怒した俺は、土門エ門を劇団から叩き出した。
くそっ、あの時、奴だけが「王様は裸だ」と宣言しやがったのだ。
こんなもん遊びじゃないか、と。

数年後、昭和の終わりの頃、俺は呉服町の辻でばったり土門エ門に出会った。おう、久しぶりだな、コーヒーでも飲もうぜ、と俺は言った。
俺たちは「アブラカダブラ」という地下の喫茶店に入って世間話をしたが、まったく演劇の話はしなかった。俺が避けたのだ。小劇場ブームのまっただ中で、俺は心底「演劇」が嫌いになっていた。
演劇でなければなんでもよかった。俺は、俺や鷹匠は、演劇ではないものの中から演劇を創り出そうと思っていた。
それから更に10年、俺は「演劇」を罵倒し続けた。その間、土門エ門はじっと待っていやがった。『ゴドーを待ちながら』の登場人物のように、来るのか来ないのかさっぱり判らないものを待っていた。
まともな人間だったら待たない。こいつは愚かだから待つことができたのだ。
ところが愚かなのは土門エ門だけではなかった。風間かおりや松原美保乃(大橋淳一)もそうだった。なによりも鷹匠訓子は、愚かにも一切の希望(再び舞台に立つ)を捨て去ることで、再臨する芝居を待っていられた。

演劇とは何だ! 俺はいまだに問い続ける。奴らは何も考えない。
命がけです。その一言で俺の質問は突き返される。議題却下。
そんなんでいいのか?

だからお前は馬鹿なんだよ。人には分相応ってもんがあるんだ。
お前はそうやって「演劇」の理念で生涯じたばたするようになってんだ。
苦しんだりしてんだろう。だから皆、お前の一存で芝居をやったりやらなかったりすることに文句を言ったりしないんじゃないか。
あたしたちはね、お前の理屈を通すために、体を張ってんだよ。あたしたちは「演劇」のことなんて考えなくていいんだ、あたしたちは「演劇」をやる人間なんだ。
最初っからそうだっただろう、少なくともあたしたちは忘れちゃいないよ。

くそっ。判ったよ、そういうことかい。


以下は、Notes / Post-apocalypse #004に書いた解説。前述の文章と重複する箇所が多々あるが、あえて原文通りに再録した。

『デッド・ロード』はドモンの十六年ぶりの舞台となった。ドモンは劇団水銀81/2の前身、「劇団熾天使館(後に死天使館と改名)」の1978年の創設メンバーである。
東京の専門学校で写真を学びながら熾天使館の演劇活動を行い、旅公演にも参加した。
座員からは役者としてよりも、料理の腕が評価され、もっぱら炊事担当者として活躍したが、当時からサバイバルナイフで料理をする奴として奇異の目で見られていたことも事実。今にして思えば、ただのアウトドアー野郎(ドモンはボーイスカウト出身!)だったのだろう。

八十年代に入りドモンは職業カメラマンとなる。ファションショーの撮影や女性誌のモデル撮影が主な仕事であった。まだ見習いの時分は、きれいな外人モデルのおねーちゃんに足蹴にされたり罵倒されたり、随分と辛い目にあったようだ。夜中に「ウォークマン、スタジオで盗まれたー!」と相当に狼狽した口調で電話をかけてきたことはいまだにハッキリ憶えているぞ。ウォークマンが発売されたばかりの頃で、ドモンはいちはやくそれを買ったことをさんざん周囲に吹聴していたのだった。たしか十回ローンで買ったはずだ。いや、笑い事ではなく、カメラマン見習いの給料なんてものは、なにかのたたりではないかと疑いたくなるくらいに安かった。自慢のウォークマンは、わずか数日で行方知れずとなった。
ドモンはひとしきりモデルの外国人女性たちの悪口を言いたてた後、「東京は音がないと暮らしていけないよ。寂しいところだね」という名言を残して電話を切った。半月後、またドモンから電話がかかってきた。前にもまして混乱している。「カラカラー、カラカラー」と言うだけでいっこうに要領を得ない。ようやく意をまとめてみると、またもや悲劇。ローンでカセットデッキを購入したはいいが、いざスイッチを入れて操作しても、機械の中でカラカラと虚しい音がするだけで、テープが回らない。いきなり不良品である。申し訳ないがぼくは笑った、受話器を置いてから。

それからこんなこともあった。やはりドモンが見習いカメラマンの時のことだ。ぼくたちの劇団は静岡でテント興行をうった。公演の二、三日前になってドモンから電話がかかってきた。車を買ったから、公演当日、静岡に行けるので自分の役を用意しておいてほしい、とドモンは言った。なかなか味のある論法である。風が吹けば桶屋が儲かる式の言い回しだ。ドモンが車を買うと、台本に新たな登場人物が付け加えられる。なぜかドモンの要求はすんなり通った。
だが公演初日、ドモンは来なかった。来られなかったのだ。ドモンが買った中古車は、箱根の坂道を登ることが出来ず、涙を呑んでUターン、東京へ戻ったのだった。ドモンが買ったのは本当に車だったのだろうか?
次の日の昼過ぎ、ドモンは50ccのバイクでやって来た。ドモンの災難の話にぼくたちは笑った。「それで、俺の役は何なの?」とドモンが聞く。「お前の役は『オナノイドG1号』というロボットだ」とぼくは言った。誰も笑わなかった。ドモンは「難しい役だね」と唸り、さっそく稽古を始めた。
舞台がハネた後の酒宴にも残らず、ドモンはその日のうちに東京へ帰っていった。もちろん50ccの原付で。
「じゃあ明日はオナちゃんの役はナシでいくワケ?」と劇団員の松原美保乃が言った(※オナちゃんというのは写裸ドモンの愛称)。興行は三日間、翌日も公演はあったのである。

ちなみに楽日には、当時演劇部に所属する女子高生だった鷹匠訓子のグループが観劇に来ていて、ぼくは彼女たちにうちあげに残って酒を飲んでいけと執拗に迫ったそうだ。「わたしたち門限がありますから」と鷹匠がやんわり牽制すると、ぼくは「俺がきみの家に電話をして、ご両親に事情を説明しよう」とまで言ったらしい。そんなんで親が納得するか? 一体なに考えてたんだ、俺。全然憶えてない。

ついでだから、ちょっと触れておくが、ぼくたちが酔っぱらって芝居小屋の中で夜更けまで大騒ぎをしていたちょうどその頃、すぐそばでは凄惨な殺人事件が進行していた。それについてはまた別の機会に書くつもりだ。

それから間もなくドモンはフリーのカメラマンとして独立する。役者との二足のわらじはしだいに困難になり、1984年、三ヶ月に渡る劇団水銀81/2の移動公演『砂の城』への不参加を機に、演劇活動を断念する。これが「演劇の孵化 Vol.2」のチラシでドモンが言っている芝居である(※正しくは「維新派」の俳優が観たのは京大西部講堂で行われた公演)。そしてまた劇団水銀81/2も長い沈黙に入る。

昭和から平成になり、バブルが始まりバブルがはじけ、ノストラダムスが予言したアンゴルモアの年になるまで、写裸ドモンはずっと舞台に立ちたいと野望していたようだ。その間、ドモンは雑誌のインタビュー記事の写真撮影を中心に仕事をしていた。ぼくは時々、ドモンが仕事の折りにハリウッドスターと撮った記念写真を見せてもらうことがあるが、そんな中に一枚、ジョディー・フォスターとドモンが並んで写っている写真があった。最初ぼくはジョディー・フォスターの隣に立っている男が誰なのか、冗談ではなく判らなかった。「羊たちの沈黙2」のパブリシティかと思ったくらいだ。そいつの眼は完全にイッちゃってて、二〇〇万光年くらい先を見ていた。恍惚とした笑顔が狂気という言葉を索引し、ぼくはなぜ欧米人が日本人の笑顔を不気味に感ずるのか、その気持ちが理解できるように思った。

当節、ドモンのごとき愚か者は少なくなってきている。
いつだったか、ドモンは失恋の痛手から立ち直れぬまま、仕事でパリに行った時の話をしてくれた。精神的にも肉体的にも憔悴しきっていたドモンは、撮影の合間に実弾射撃場へ通った。なぜまたそんな場所に行ってしまうのか、そこのところがいかにもドモンなのだが、とにかく実弾が入ったピストルを撃ちまくった。しかしそんなことで憂鬱がはれるわけではない。ふとドモンはなんの気なしに、銃口を自分のこめかみに当てた。イスラエル製の拳銃、ジェリコ。これで引き金をひけば俺は死んじゃうんだろーなー、と思ったそうだ。それから、更に憂鬱な気分になり、ドモンは25m前方の射的を撃った。

「人間って簡単に死んじゃうんだよねー」とドモンは言い、ぼくは大笑いした。それは笑うべきところではなかったかもしれないが、深刻になるシーンでもなかったはずだ。ドモンも笑われて憤慨したりはしなかったし、『デッド・ロード』の店長のように「怖いよなー」と茫洋としただけだった。

さて、写裸ドモンはまともだろうか? 良識ある人間なら自分の頭にピストルを向けたりはしないものだ。だからぼくにはドモンがまともだとはとても思えない。ジョディー・フォスターとのスナップ写真に露呈していたような狂気と同居している。でもドモンは鉛玉を自分の頭蓋骨にぶち込んだりはしなかったし、これからもしないだろう。そして決して他人の脳髄を吹っ飛ばしたりすることもないと断言できる。
ドモンが正真正銘のサイコと化し異常犯罪への道を突っ走るのを押しとどめているものは何なのだろう。決まってるだろ、それは演劇さ、と言えば恰好はいいが、たぶんそうではない。

ぼくは演劇は愚行だと思っている。まともな人間がやるものじゃない。ドモンのような連中がやればいいのだ。恢復不能な連中が。でも、まともではないからといって、奴らは病んでいるわけではない。精神が歪んでいようと、それは彼の精神がそのような形をしているだけで、「病み」とは違う。人を殺人へとかり立てるのは私的な狂気ではない。実弾が装填された銃の引き金をひかせるのは精神の「病み」であり、おぞましいことにそれは人から人へ伝染するのだ。

昨今、演劇はある種の人々−つまり病んだ人々−にとって「癒しの装置」になっている。舞台に立つことによって内的軋轢を減圧し、精神の崩壊に歯止めをかける。彼らが発散する物は様々だ。日常のストレスであったり、歪んだ性的妄想であったり。それを背負わされる観客はたまったものではない。ぼくが腹立たしいのは、そうした演劇には明らかに「意義」があるということだ。そこには開放という言葉がつきまとっている。ある種の人々は舞台で確実に「救われている」のだ。もちろんその後、おもむろに立ち去るのだが。舞台は治癒空間ではない。観客はセラピストではない。真に開放されなければならないのは観客であり、断じて俳優ではない。

ぼくはこの二、三年というもの、静岡のアマチュア劇団の公演をできるだけ観るようこころがけてきたが、病んだ人々の徘徊がおびただしい。健全な社会生活を営みながら、潜在する「病み」を演劇の場にぶちまける。見た目では判らないはずだ。ドモンのような異形が現れないから。でもマジでこいつやばいな、と思ったことが何度もあった。こいつ、条件がそろえば人を殺すだろうな、と。この場合、彼らが正真正銘のサイコと化し異常犯罪への道を突っ走るのを押しとどめているものは演劇です。やれやれ。以前、茶飲み話で、劇団は文化庁からではなく厚生省から助成金をもらえ、いまや演劇活動は医療行為である、と宣言したことがあるが、笑い事ではなくなってしまった。

楽屋でメークをしながら「めちゃくちゃあがってるよ俺、十六年ぶりだもん」と何度もつぶやくドモンを見ていて、「あー、こいつにとって演劇は救済なんかじゃないんだなー」とつくづく思った。救済されなかったからこそドモンは再び舞台を踏むことになったし、それはぼくにしても同じことなのだ。

公演終了後、松原美保乃(現オオハシジュンイチ)が言った。「今日のはあんまりコクなかったんじゃないの。オナちゃんの演技、ちょっと変わったね」。うーん、充分ギトギトだったと思うけどな。


1999.12.25
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