Notes/Post-apocalypse  #010  Ayame−鈴木大治


芝居者とつきあってさ、心底嫌になっちまったんだよ。        
「俺は役者だ」って口にする連中がさ。               
奴ら、芝居がうけなきゃそれを本のせいにしてるじゃないか。     
ふざけるなってんだ。てめえの芸がつたねえだけだろう。       
いい台詞をもらやあいい気になりやがる。わきの台詞にゃ文句をたれる。
吐いた台詞をてめえの言葉と勘違いして、そいつがうけりゃあ調子ずく。

────────女絵師・朱鷺 『双朱鷺雪葬儀外伝』


双朱鷺雪葬儀外伝・灰野乱羽篇 雨宿り

 灰野乱羽は当初は『双朱鷺雪葬儀』のサブキャラクターとして設定していた。『双朱鷺雪葬儀』は明治が舞台だが、実際の灰野は天明・寛政期の江戸を生きた戯作者・台本作者である。『双朱鷺雪葬儀』のキャラクターをほぼそのまま灰野の本来の時代に移行させた『双朱鷺雪葬儀外伝』で初登場。その後『双朱鷺雪葬儀外伝・月光鬼』を経て、灰野の物語は昨年静岡県舞台芸術公園野外劇場で上演された『月光鬼』へと広がる。今回の『雨宿り』では灰野の謎に包まれた過去の一端が語られる。


 江戸のアンダーグラウンド文化を辿って行くと必ず灰野乱羽に突き当たる。灰野乱羽は本名「鈴木清寛」。駿府に生まれ、実家は日本最古の活版印刷である「駿河版」を製作した工房だと言われている。出自からして文芸に深く関わっていた灰野だが、とりわけ同郷人の十返舎一九は灰野の人生に多大な影響を与えている。

 一九の「東海道中膝栗毛」の主人公弥次郎兵衛は駿府の豪商の一人息子、北八は元・旅の一座の若衆役者である。一九は幼なじみの灰野乱羽をモデルにして、このアナーキーなコンビを創作した。もっとも灰野は弥次・北のように、夜逃げ同然に江戸へ出て来たというわけではない。
 灰野乱羽の名がほとんど知られていないのは、彼の戯作のことごとくが発禁の処分を受け、完全な原稿が現存していないためである。寛政期における幕府の出版差し止めは珍しいことではないが、たいがいの発禁本はその後、改題して出版されている。だが灰野の事例に限って言えば、発禁即ち、作品の抹殺だったのである。

 これはきわめて異常な事態である。いったい灰野の作品のどこが、そこまで幕府の憎悪を買うことになったのか。更に奇妙なことには、徹底した弾圧を受けながらも、灰野は手鎖刑に処せられた記録がないのである。つまり執筆活動を禁じられたことがない。なぜそのような立場を保持することが出来たのだろうか。残念ながらそれを明らかにするような作品は残されていない。
 その一方で灰野乱羽は相当数の芝居の台本を書いている。怪奇と幻想に満ちたその劇世界は鶴屋南北を彷彿とさせる。灰野と鶴屋南北の間になんらかの関係があったと想像するのはスリリングではあるが、それを裏付けるような資料はない。

 灰野の台本は常設小屋の著名な一座のために書いたものではなく、小屋掛け芝居やいわゆる河原で上演される乞食芝居、あるいは町内の風流人たちが集まって演じる素人芝居のために、無報酬で書き下ろされた。また自らも旅芝居の一座、「水銀座」(わたしたちの「水銀座」の名は、これに由来する。ちなみに灰野の一座は「みずがねざ」と読んでいた)を組織し、各地を巡業した。

 実はこれもまた灰野の人物像を不可解なものにしている一因である。灰野は口癖のように、なにかにつけ「役者が嫌いだ」「芝居が嫌いだ」と悪態をついていたという。前述の一九の件からも推察されることだが、灰野は既に駿府における十代の時分から、一座を組んでいた。灰野がいかなる経緯で芝居の世界に足を踏み入れたのかはつまびらかではないが、漂白民でも芸能者でもない彼が芝居者として生きる道を選んだからには、それなりの理由があったはずだ。芝居に対する矛盾した感情は、なんに由来しているのだろうか。
 羽田明彦氏は「幻視」説を提唱している。灰野は少年時に片目を傷つけてしまい、両の視力に極端な差があった。そのため錯視が激しく、遠近感も一般人とは異なっていた。これが恒常的な「幻視」を誘発し、灰野の意識を「現世」と「来世」へ引き裂いていたと言うのである。江戸期の人間の灰野が近代的な自我を持ち得たかどうかは甚だ疑問ではあるが、彼がなにかに「取り憑かれている」という感覚を常に抱いていたのは確かなようだ。

 羽田氏は灰野の一座が、駿府、現在の静岡市羽鳥にあった密教系の寺で小屋掛け芝居を行った時に起きた奇怪な事件も報告している。旧盆の夜半に上演していた芝居の最中、一座は突然の激しい雨と風にみまわれ、仮設の芝居小屋は一瞬にして倒壊、その直後、灰野は小道具の竹光を振りかざして「馬頭観音か!」と叫びながら本堂に向かって駆け出していった。翌朝、役者の一人が神隠しにあっていることが判明、別の役者は高熱を出して三日後に死亡、灰野は公演の夜の言動のことは憶えがないと言う。この事件が水銀座(わたしたちの)の『月光鬼』のネタになっている。
 灰野乱羽に関するこうした奇談を列挙してゆくと際限がない。そういえば随分前のことだが、東州斎写楽研究者たちの間で、灰野乱羽こそが写楽ではないかという説が流れたことがある。なるほどこの時代、多くの戯作者が浮世絵師としての作画活動も行っていたし、灰野は絵師たちとの交流も深かったから、灰野自らが絵筆をとらずとも彼と仲間の絵師が写楽を仕組んだということもあり得ぬことではない。しかし写楽が活躍していた時期、灰野は一座を率いて東海道を巡業していたという記録が残っているため、この推理はすぐに立消えになった。
 灰野は文化的位相の中心に立とうという気概が全くなかった。と言うよりも、中心へ向かうことを自覚的に拒絶していた。不断に周縁であり続けることによって、彼は表現が越境してゆく場に、常に立ち会うことが出来た。

 灰野乱羽は名声や成功とは生涯無縁であったが、彼の冬の青空のようなニヒリズムは粋と洒落をなによりも重んじる名も無き庶民たちによって愛されたのである。

2000.1.20
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