シアター・オリンピックス観劇記 #02 Ayame−鈴木大治

バカになれってんだ。
───────ロバート・ウィルソン

ロバート・ウィルソン 『モノローグ ハムレット』 静岡芸術劇場 4月18日


ロバート・ウィルソン

 ロバート・ウィルソン。あのロバート・ウィルソンだぞ。現代演劇に燦然と輝く巨星である(と思っていた)。たぶんその名前は七十年代から知っていたはずだ。テレビニュースで『聾者の視線』のワンシーンを見たのは、あれはいつのことだったか。
『浜辺のアインシュタイン』、『CIVIL warS』、次々に伝説となる舞台。実際の舞台を観ていないだけに、ぼくのイメージの中では勝手にカルト化が進行していた。
『モノローグ ハムレット』。ロバート・ウィルソンのソロプレイ。そりゃあ観るしかないでしょう、なにはともあれ。観ないわけにはゆかないじゃないか。
 でもシェイクスピア。でもなあ、『ハムレット』かあ。どうもシェイクスピアとは相性が悪い。面白いと思ったことがないのだ。『ハムレット』とも相性が悪いらしい。戯曲を読んでも途中でつまずく。ケネス・ブラナーの映画は寝てしまった。体調が良くなかったためかもしれないけれど、ストーリーに魅力を感じないのだ。だけど、あのロバート・ウィルソンだからな。なにはともあれ、観ないわけにはゆかないじゃないか。
 「イメージの演劇」? なんだそれ? さっぱり判らないぞ。ああ、それでも、あのロバート・ウィルソンだからな。なにはともあれ、観る。

ハイナー・ミュラー

 シアター・オリンピックスは、ハイナー・ミュラーの亡霊がうろついている。特にロバート・ウィルソンには、背後霊のようにミュラーがつきまとっている。
『ハムレット』はウィルソンとミュラーの因果の象徴だ。ミュラーの『ハムレット・マシーン』は、彼の名を世界的劇作家として不動のものにした。そのミュラーが唯一称賛を贈った『ハムレット・マシーン』の演出者がウィルソンである。
 ウィルソンがハムレットを演じるのならば、そこには当然の如く、暗殺されたデンマーク王の亡霊としてミュラーが立ち現れる。

モノローグ

 なぜモノローグなのか。ウィルソンは『ハムレット』のテクストから、時間軸に沿った事件という枠組みを取り外そうとした。物語を律する時制を解体したのである。
 ウィルソンはパンフレットに次のように記している。
「これはある意味で全て、彼の意識の中の出来事です。だから、モノローグなのです。」
 つまりハムレット事件=物語の歴史を、ハムレットの記憶に書き換えたのである。
 ウィルソンはこうも言っている。
「舞台を特定の時間、特定の場所に位置づけ、特定の解釈を与えることは作品の可能性を狭めてしまう」
 ぼくはこの意見に同意できない。舞台(上演)とは、作品が内包する無限の可能性を、たった一つに集束させるものだ。演出はそのために存在するのだし、多義的な解釈が可能な演劇にはなんの意味もない。
 また、ここで言う「舞台」が、「物語の舞台(時・場所)」の意味であったとしても、「いつでもないいつか、どこでもないどこか」というような言い回しは、「いま・ここ」を真摯に生きる観客に対して怠慢なのではないかとぼくは思う。
 まあいいや、どう読んでもご随意にということなら、そうさせてもらう。
 さて、ミュラーはこんな言葉を残している。
「わたしをとらえて離さぬ問題こそは、いかにして一つのテクストが、それを話す役者からは自立して、舞台のうえで一つのリアリティへと転化することができるのか、ということです。・・・・テクストというのは、何かを伝達するものとして、つまりは何かの情報として送り出されるものであってはならず、空間のなかを自由に飛翔するメロディーであらねばならぬのです」
 ミュラーが『ハムレット・マシーン』の上演に関してこのようなことを考えていたのならば、ウィルソンが演出家として最高の適任者であったこともうなずける。なぜならウィルソンの『モノローグ ハムレット』は、まさしくミュラーの言葉を具現化したものだったからだ。
 ただし、この「具現化」の成立にはいくつかの幸運が関与している。
 まずテクストが英語で語られているということ。英語の台詞を充分に理解できない観客は、ウィルソンがテクストの時制を解体するまでもなく、あらかじめ意味の呪縛から自由である。テクストが情報としての価値を持たないのだ。ここでは物語が機能していない。したがって創作者の思惑を離れた地点で、演劇から文学性(物語)が排除されている。台詞の意味するところが理解できなくても、なんら支障はないのである。
 舞台体験はウィルソンの発声を聴き、身体の動きを観ることだけで完結する。舞台脇の字幕を読み、物語を追おうとするとき、観客は『モノローグ ハムレット』の演出意図に逆行する。この舞台の楽しみ方を失ってしまうのである。
『モノローグ ハムレット』が音楽的な(そして美術的な、建築的な)演劇であったことも幸いした。サウンドスケープは実に素晴らしいものであった。立体的な音像。多チャンネルを駆使して音楽や効果音や、意味を剥奪されて単なる音と化した台詞が、会場の様々な方向から聞こえてくる。最初はウィルソンがマイクを使っているのが少々意外だったが、小規模な劇場だから、会場全体に台詞が聞こえるようにするという用途ではなく、PAから出る、事前に録音された台詞の質感と、舞台で発声される台詞の質感を統一するために使ったのだと解釈して納得した。
(やるだろうな、と思っていたら、案の定やった。ほんの一場面だが、マイクを通した声にエフェクターをかけて、野獣の咆哮のような声に変型していた。そうそう、マイクはそういう風に使わなくちゃね、お約束として。待てよ、まさかそれだけのためのマイクじゃないだろうな?)。
 洗練されたサウンドデザインを可能にしているのはもちろん静岡芸術劇場の設備である。最高の音響空間。
 ライティングデザインもいい。とりわけホリゾントに焼き付くような稲妻(ライトニング)の閃光にはしびれた。
 お洒落な衣装に舞台装置。センスが合えばそれだけで気分良く楽しめる。特殊な趣味の人たちにはメガ・レコメンド。かなり「フェティッシュ」、入ってるから。黒一色の衣装、黒い靴、黒い手袋、黒いレザーアーマー、メタリックに輝く小道具。おいおい、なんだかゲイっぽいぞ、ええのンかあ? デレク・ジャーマンの『テンペスト』を想起せよ。
 だが心底驚くような新しい意匠に出会うことはなかった。
 実を言うと、ぼくはこういう舞台が好きだ(いや、フェティッシュとかゲイとか、そういうことじゃなくて・・・・)。でもこれが演劇かと問われれば、首を振る。ぼくの指向では、文学性を失った演劇は、「動く美術」だからだ(ぼくは演劇的に保守派である。たぶん)。
そしてなによりも、『モノローグ ハムレット』が一人芝居だということに首肯できない。
 一人芝居は精神病患者の独白に似ている。舞台上の男が、俺はハムレットだ、と言う。本当に彼はハムレットだろうか。観客はいつも内心こう思っている。いいや、舞台に立っているのはハムレットではない。俺は真実を知っているぞ、俺はハムレットだと言うお前は本当は、俺はハムレットだと言うロバート・ウィルソンだ、俺はハムレットだと言うお前は本当は真田広之だ。
 では、俺はハムレットだ、と言う彼は、誰によって、お前はハムレットだ、と認知されるのか。観客ではない。彼がハムレットであると信じているのは、同じ舞台に立つ登場人物たち=他者である。
 やあ、ハムレットじゃないか、どうしたんだハムレット、きみがハムレットか。
 なるほど、あの人たちががハムレットと言うからには、たぶん彼はハムレットなんだろう、と観客。
 一人芝居には他者が存在しない。他者との関係が現れない。いかに巧みに複数のキャラクターを演じわけたとしても、それは畢竟、一人の人間の内面告白以上のものにはなりえない。古代社会や中世ならいざしらず、ぼくたちには既に精神分裂も多重人格もすっかりおなじみになってしまっている。彼は内なる他者を表出しているだけなのだ。
 だがそれが演劇であるためには、他者の存在が必須である。では、彼、俺はハムレットだと言うロバート・ウィルソンに対する他者はどこにいるのか。それは観客席にいる。観客は「他者」という役柄を振りあてられて、彼の言葉に耳を傾けている。更に具体的に言うならば、観客は俳優(自分はハムレットだと言い張るバカ=病人)をカウンセリングする医師なのである。
 観客が舞台上の虚構に参加することにより、劇場から観客が消滅する、これが一人芝居の仕掛けだ。

事件

 さて、前述した「ハイナー・ミュラー/ロバート・ウィルソン−イズム」の具現化は次のような事件によって成立する。
 上演も半ばを過ぎたあたりだろうか、劇場内に携帯電話の音が響いた。それもかなり長く。おいおい、早くなんとかしろよと思うくらい長かった。しかも、問題の携帯電話は再度鳴ったのである。
 これ以上はないほどの現実的な音(催眠術を解く合図のような)で観客は自分自身に立ち戻り、呪縛から開放された。くどいようだが、観客は演劇の外側=現実にいるから観客なのである。演劇=虚構の内部に取り込まれた観客は、もはや観客とは言えない。
 事件により、観客は担わされていた役割を解除された。客席の「聞き役」は、思いがけぬ事態に対する舞台上の男の反応を興味深く観察する野次馬へ、一瞬にして変貌したのである。 「あの人、すっごい動揺してたよね」、ぼくと一緒に観劇していた女の子はこう言った。ウィルソンが本当に動揺していたのかどうか、ぼくには判らない。けれども確かに、これを契機にして、ウィルソンの戦略は狂った。十六歳の少女にすら、演技の変化は明らかだったのだ。
 ウィルソンは凡庸な演技をしはじめた。すなわち形式が崩れたエモーショナルな演技。フツーの芝居。ところがである、意外なことに、そこからテキストに記述されなかった「真相」が現れてきた。
(俳優に必要とされているのはサブテキストに踏み込む能力、すなわち台詞と台詞の間を読む力だとされている。ホントかどうかは判らない。でもそれが正しければ、ウィルソンはまさしく名優である。皮肉だけど)。
 実に明解。ハムレットの性格に暗い影を落としていたのは、思索的傾向というよりも、マザーコンプレックスだったのである。そして、なんと、『ハムレット』はギリシア悲劇『オイディプス』の鏡像だという予感が立ち上ってくる。
 つまり「ハムレット/アンチ・オイディプス」。よし、出たぞ、ポストモダンのキーワード!
 これで完了。『モノローグ ハムレット』は、ハムレットという男の精神分析である。

 1988年、ロバート・ウィルソンはハイナー・ミュラーに言及したインタビューでこう言っている。
「バカになれってんだ。 BE stupid」
『モノローグ ハムレット』のカーテンコールで見せたウィルソンの身振りは、「ステューピッド」ではなく、「フール」であった。

そして伝説へ

 なんだい、これじゃ伝説にならないじゃないか。しょうがない、自分でやるか。
 以下はぼくが今後ばらまくつもりの『ロバート・ウィルソン モノローグ ハムレット 伝説』である。

 上演も半ばを過ぎたあたりだろうか、劇場内に携帯電話の音が響いた。
「おいロバート、ハイナー・ミュラーから電話だぜ」とぼくは思った。(ミュラーは数年前に他界した、シアター・オリンピックス委員。死後も委員名簿に名前が残っている)。
再び携帯電話が鳴った。ぼくはその時点で気づくべきだったのだ。劇場内には携帯電話の電波が入らないことに。
終演後、携帯電話の事件が話題になった。ところが、奇妙な事実が明らかになった。誰も携帯電話を受けた人物を知らないのである。
ぼくは上手側の中央の客席で観ていたのだが、下手側後方で携帯電話が鳴っていると思った。そこで、その辺りに座っていた友人にそのことを聞いた。彼はこう言った。
「え、上手の前列の方で観てる奴の電話が鳴ったんじゃないのかい?」
またある婦人はこう言っている。
「二階席の人の携帯電話、鳴ってたわね。でも一回目は仕方がないとしても、その時に切ればいいじゃない。なんで三度も鳴るの」
三度? 鳴ったのは二度だろう?
それから、高校生の女の子からはこんなことを聞いた。
「あの着メロ、趣味悪かったよね」
着メロだって? なにを言っているんだろう? 普通の着信音だったぞ・・・・。

劇場を建設中に事故死した作業員の霊だとか、いや、ロバート・ウィルソンがハムレットの亡父を召霊したのだとか、ビデオの呪いだとか、様々な噂が飛び交ったが、真相はいまだに判らぬままである。


今日の御挨拶  鮎都さん(女子高生女優)/美濃和哥さん(歌人)
今日の目撃  鈴木忠志さん

▲back