シアター・オリンピックス観劇記 #05 Ayame−鈴木大治


グループ・エミール・デュボア 『いうならばドン・キホーテ』 グランシップ中ホール



 かっこいいよなー、ダンサーのおねーちゃんたち、嫌になっちゃうくらい美人だよなー。でもジャン=クロード・ガロッタの振付ってさ、「いうならばキャラクター」の勝負じゃん。グループ・エミール・デュボアはSPACダンスのチームと同じキャラだもん。もっともSPACのほうをこちらのキャラに似せたんだろうけど。

 『いうならばドン・キホーテ』。冒頭から日本語のナレーションが入る。あからさまに物語が始まっちゃった。ラストも日本語の台詞でしめ。もちろんダンサーも台詞を喋る。えー、そんなの反則じゃないの? とは言わない。ぼくはガロッタの舞台を観るたびにいつも思うから。これはダンスじゃなくて演劇なんだって。ガロッタはダンサーの身体技術を利用して演劇を創っているんだ。
 静岡で上演されたガロッタの作品は、全て観ているから、ガロッタの手口って、たいがいは読めちゃったよ。
 まず第一にテクストの比重が大きすぎるよね。悪く言えばテクストに頼りすぎている。表現が物語性の上に成り立っているんだ。
だからダンサーたちにも特定のキャラを持たせる。重要だよ、キャラって。
 キャラが立つとさ、そこにはおのずと物語が発生しちゃうんだよ。知ってた?
 それからさ、『いうならばドン・キホーテ』の舞台では、たくさんの本や、あれやこれやの小道具、木馬がついたペダルこぎの子供の車とか、そういうダンサーの身体以外の事物がイメージを喚起させるんだな。観客って利口だからさ、記号があるとそれに勝手に意味を付与しちゃうんだよね。そうやって記号を駆使するとこ、本当にうまいよ。音楽にしてもそう。あ、だけど『いうならばドン・キホーテ』は音が悪かったな。グランシップ中ホールの音響ってよくないね。その分、かなり損しちゃった思うよ。

 ところで最初に出てきたブロンドの美女、誰かに似てるなーと思っていたら、途中でハタと気づいた。あああ、そーか、キスティスに似ているんだ! そうだよ、これって「ファイナル・ファンタジー[」の世界ですよ! すると次から次へと、その類似を発見してしまった。4人の女性ダンサーには、キスティス、ママ先生、セルフィがいた。4人の男性ダンサーには、サイファー、ゼル、キロスがいた。ホントに似てんだよ。残る男女1名づつは、共に黒髪で、どことなく二人のキャラはかぶっている。うーん、やっぱりポイントはキャラですな。
 かっこいいよなー、ダンサーのおねーちゃんたち、嫌になっちゃうくらい美人だよなー。
 あれっ、一枚目からやり直しか? くそっ、セーブしそこねた。
 誰も判んないだろうな、今回の文章。

1999年4月30日に観ました。




今日の御挨拶  山本肇さん(グランシップ館長)/杉山恵一さん(静岡大学教授)
今日の目撃  鈴木忠志さん

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