シアター・オリンピックス観劇記 #06 Ayame−鈴木大治


セスク・ゲラバード 『黄金?分割』  グランシップ静岡芸術劇場 5月1日



 セスク・ゲラバードのソロダンス。振付のゲアハート・ボーナーは既に故人。

 舞台前面に八本の柱が等間隔で立っている。舞台後方上手に同じ角柱が一本立っている。床には三角形の二辺を模した白いラインが引かれている。その頂点の脇に、やはり白いラインで円が描かれている。
 キース・ジャレットが演奏するバッハが流れ、ダンスは始まる。舞台奥の柱の前に立ったスキンヘッドのゲラバードは、洒落たダークスーツとコートを着こなし、超一流のファッションモデルと見紛うほどである。ゆっくりと舞台を横切る。幾たびも。完璧な優美さ。だが、ゲラバードのダンスには動きが感じられない。例えばそれは、スポーツ選手の運動を分解した連続写真のようなのだ。静止した状態において「美しい」運動の連続がダンスを構成している。
 次の展開は、床の上の円の位置から開始される。輪の中に立つゲラバードは中世の修道僧のようだ。それから横一列に並んだ柱の間に立つ。一曲につき一続きのダンス。曲が終わると(つまり一つの振付が終了すると)、次の柱の間隔へ移動する。八本の柱は絵画の額縁にみたてられていて、ゲラバードは解剖学的な身体運動を行う。人体の筋肉がどのように動くのか、人体の関節はどのように動くのか。そしてなによりも、いかなる身体フォルムが絵画的に美しいのかを実証してゆく。

だからなに? これは動く美術品ですか?

 西洋美術は、人間の身体運動から美的フォルムを抽出し、それを絵画や彫刻として固定していった。『黄金?分割』は、美術が発見した美的身体フォルムという記号を、現実の身体で再現してみせたのである。絵画的に美しく見える瞬間の連続。一分の隙もない、理想的なポスト・モダンダンス。

だからなに? 美術から身体記号を奪還したと言うわけですか?

 それにしても、とぼくは思う。これほど完璧な美に、なぜ神は降臨しないのか。人間の身体という器が、ここまで完全な美を表現できるのに、なぜそこに神性が宿らないのか。こんなに見事な形式(スタイル)が用意されたのに。
 判らない、なぜなんだろう。

 つまりこう云うことですか、もはや神はダンスなどに興味はないと?



今日の御挨拶  花村くんの御母堂
今日の目撃  鈴木忠志さん


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