シアター・オリンピックス観劇記 #09 Ayame−鈴木大治


テアトロ・マランドロ 『血の婚礼』  グランシップ中ホール 5月9日



□灰色の軍服を着てゴーグルをつけた男が、ロビーや客席をうろつきまわっては、何事か叫んでいる。演劇は既に始まっているのである。いやがうえにも期待は高まる。開演まで延々とループして流れている曲、このタイトルは何だったか、ああ、くそっ、思い出せない。その催眠効果。ぼくの周囲の観客、みんな眠っている。そうだよ、そうやってきみたちは異界へ連れ去られるんだ。目ざめたときはもはや手遅れ。そして秘儀が始まる。■『血の婚礼』。これは面白い。絶句するほど。猥雑さ・グロテスクさ・卑属さ・下品さが、一瞬にして神聖・崇高に昇華されるエクスタシー。非日常的な祝祭空間の見事な現出。近代演劇が排除した、ありとあらゆる表現が動員される。路上の乞食芸人から採取した技術。土俗芸能から継承した技術。部族祭から引用した技術。混沌、いや混交する舞台芸術のマテリアル。演劇の始源回帰を装いつつ、テクノロジーで武装した、モダーン・プリミティヴ演劇。傑作。これじゃ文句のつけようがない。□でも言うぞ。シアター・オリンピックスで『血の婚礼』が一人勝ちしたら困るから。というのは・・・・■表現には「具体」と「不可知」という二本の柱があるとぼくは考えている。不可知とは例えば「見えないもの」である。見えないものは見えるものを通じて発現する。不可知とは例えば「聞こえないもの」である。聞こえないものは聞こえるものを通じて発現する。すなわち具体を象徴として利用することで不可知が伝えられるのだ。呪術師やシャーマンは具体と不可知の仲介者であり、彼らが演劇の起源である。□舞台芸術において、不可知は遍在している。不可知は事象の隙間に存在する。テキストの行間とか、事物の関係性とか、俳優と俳優の間合い。けれどもそれが「不可知」であるがゆえに、ぼくたちはそれを知ることが出来ない。認識不可能。□別な言い方をすれば、演劇とは、そのような不可知を現出させるための絶望的な営為である。そのために、あらゆるメディア(文学、美術、音楽、ダンス、建築、テクノロジー、身体)を動員して、「想像すら出来ないような、あるもの、を創造しようとする」のである。■具体は光に似ている。それが闇(不可知)を照らすのか、ぼくたちの目を眩ませて不可知をますます遠ざけてしまうのか、どちらとも言えない。具体の強度は両刃の剣である。□『血の婚礼』の具体に触れた観客は、もはや「不可知」など求めようとはしないのではないだろうか。たぶんそれでいいのだろう。女性彫刻家(この表現は差別的ですか?)のルイーズ・ブルジョアは、「幸福な人々には物語がない」と言っている。ぼくはこう言いかえる、「幸福な人々には物語はいらない」。■『血の婚礼』の客筋は、これまでシアター・オリンピックスで上演されてきた他の演目とは異なる。比喩的に言うなら、室内楽のコンサートからアイドルタレントのコンサートに移動したような雰囲気。□「今日の目撃」で報告しているように、静岡の演劇シーンを牽引しているお二方が会場に姿を見せているというのは、偶然ではないだろう(ちっ、おいしいところだけはしっかりいただくんだな。判ってることだけど)。当地の舞台関係者が多数観劇しているはずだ。□『血の婚礼』が提示した「具体」のあまりの面白さ、素晴らしさは、今後多くのエピゴーネンを輩出するのではないかと思う。残念だ。



今日の御挨拶  鈴木忠志さん/御宿至さん(彫刻家)/大杉弘子さん(現代書家)
今日の目撃  佐野暁さん(演出家)/都築はじめさん(らせん劇場主宰)


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