シアター・オリンピックス観劇記 #14 Ayame−鈴木大治


国際共同作品 ロジャー・レイノルズ 『縁』  グランシップ静岡芸術劇場 5月22日



 莫迦にするな、とまでは言わぬにしても、とにかくユルイのだ。これのどこがEDGEなのだろうか?
 EDGEとは何か。ぼくの(俺的)定義では、EDGEは、神と人間の間に引かれた分割線だ。表現可能なギリギリのラインであり、人間の側から見れば、EDGEの向こう側は不可知の領域、すなわちゴッドサイドである。その意味でテクノロジーの最前線もEDGEだ。ミクロにしろマクロにしろ、人間の知覚外の事象と対峙している人々は、たしかにEDGEに立っている。EDGEは「神」をかいま見ることが出来る可能性を秘めた場であり、またそうでなければならない。
 パンフレットにもわざわざこう記載されている。
「TECHNOLOGYテクノロジー/MUSIC音楽/THEATER演劇」
ここで言うテクノロジーとはどういう性格のものだろうか。医療テクノロジーと演劇が結合したとして、いかなる舞台が出現するのか? コンピューターと演劇が結合した時、どのような舞台が出現するのか? コンピューターが俳優の動きをスキャンして、それを即座に音楽化することは可能だろうか? コンピューターが俳優の声音と照明を連動させることは可能だろうか? 軍事技術はいかにして演劇に応用できるのか?
 『縁』。莫迦にするな、とまでは言わぬにしても、とにかくユルイのだ。これのどこがテクノロジーなのだろうか? 音響テクノロジーですか? だったら莫迦にするな、と言う。七十年代以降、数々のノイズ/アヴァンギャルド・ミュージシャンたちが行ってきた偉大な音響実験をこの連中はどう考えているのか?
 たしか鈴木忠志さんは『リア王』の音楽でLAIBACHを使っていた。だったら、S.R.L.、SPK、TG、NWW、WHITE HOUSE、こういった表現者も押さえているんでしょうね。知りませんか?

 数年前のある集会において、ぼくは鈴木忠志さんに次のような質問をした。
「表現の辺境についてはどう思われますか。舞台芸術センターは、辺境文化も視野に入れているのでしょうか?」
 鈴木忠志さんはこうおっしゃった。「表現には辺境など存在しないと思います」

 「縁」は三部構成である。まず最初はパーカッショニストのソロプレイ。パンフレットに作曲者が明記されているから、即興演奏ではないのだろう。
 ユルイ・・・・。そのくせ押しが強い。修道僧のような身なりをした演奏者の身体性、その身振り、目障りなことおびただしい。思わせぶりなキメ。気合いをイれて、あるいはヌいて。
あからさまな、お約束の所作。そのたびにミューズは遠のく。

 その二。三人の活動ジャンルの異なる表現者が、舞台でギリシア悲劇のテクストを開く。音楽と歌と言葉が自在に越境する交易の場になる、予定だったのだろう。打楽器奏者は譜面(テクスト)を見ながら演奏、歌手も譜面を見ながら唱う。ここまではいい。演者の身体は、テクストを紙面から立ち上げるための媒体である。テクストの通過地点である。演者はテクストの奴隷であって、そこには自己表現などという夾雑物が入り込む余地はない。「テクスト<演者」ではなく、「テクスト→演者」という関係において緊迫した糸が張られている。ここまではよかったのだ。
 ところが女優がいただけない。演技術が全くの的外れ。エキセントリックな台詞回し。役柄への没入を過度にアピールする「ベタ」な演技。例えば憑依した霊媒である。けれどもそれが作り事であることは、彼女が目の前の台本をめくる手つきを見れば一目瞭然。
 神降ろしの儀式の中心に「女優」がいるのは正しい。神はそれ自身で現前することはあり得ないから。「それ」は女優すなわち霊媒の身体を通して具現する。その際、女優は自我を放棄しなければならない。
 『縁』第二部の舞台上の女優は「忘我」などとは無縁。彼女自身の狂気を演じているように見せただけであり、またしてもミューズは遠のく。
 そして第三部はSPACの登場。ええっ・・・・! 何ですか、これは? 演歌ギリシア悲劇? これってEDGE? 鼻メガネとヒゲ・・・・。S石さんのそっくりさん? 笑っていいんですか? いいんでしょうね? あーあ、ユルイEDGE。

He was on edge. (彼はイライラしていた)研究社新英和中辞典



今日の御挨拶  鮎都さん(女子高生女優)/原千尋さん(フリー女優)
今日の目撃  鈴木忠志さん


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