シアター・オリンピックス観劇記 #17 Ayame−鈴木大治


ヌリア・エスペル/ルイス・パスカル 『ロルカの闇』 舞台芸術公園「楕円堂」 6月4日



 書物の上の文字としてではなく、俳優の口から発せられる「詩」、あれは正しくはどう呼ぶのだろうか? 朗読ではないし語りでもない。詠うとも違うし、唱えるという言い方も似合わない。詩吟? ますます遠いんじゃないか? 判らないので「発詩」と造語しておく。

 演劇は詩を内包しているが、詩はそれ自身では演劇ではない。これはとても重要なことだ。テクストにどこかから引用してきた「優れた」詩をとりあえずぶち込んで台詞にし、それを舞台にのせればとりあえず演劇の体裁は出来あがる。けれどもそれは演劇「のように見える」というだけのことで、強度を持った演劇ではない。

詩はいかにして演劇に到達するのだろうか。


 ヌリア・エスペルとルイス・パスカルは、その秘蹟をぼくたちの目の前で、惜しげもなく実行してみせた。

 客席の灯りはそのまま消えずに『ロルカの闇』は始まる。舞台に演出家が登場する。彼は俳優だ。けれどもぼくには彼が「虚」なのか「実」なのか判別出来ない。
 なんだか舞台挨拶に出てきただけのようにも見える。
 「今夜私は、詩人の言葉で、あなたたちに語りかける事になりました。そしてフェデリコ・ガルシア・ロルカの並み居る女性の魂に命を与える偉大な女優は、ヌリア・エスペルです」
 あれれ、やっぱり舞台挨拶? 続いて女優の登場。みなさま、本日はようこそご来場下さいました、とでもいうかのように。
 ルイス・パスカルが詩のタイトルを言い、ヌリア・エスペルが「発詩」する。
 なんだろう、これは? ロルカの詩の会? でも・・・・。

 ぼくは「詩」の魅力が理解出来なくても、「詩の力」は理解出来る。と思う。詩が世界を変化させることをぼくは知っている。だからぼくは、そこが「劇場」であることを呪った。もしもそこが街角のカフェだったら、もしもそこが人々の行き交う雑踏だったら、もしもそこが真夜中のアパートの屋上だったら、もしもそこが爆撃に恐怖する家族が肩を寄せ合う倉庫だったら。詩は空間を何か別のものへ変容させたに違いないのだ。
 でも劇場は、相も変わらず劇場のままであった。
だったら、例えばこの「楕円堂」の舞台の上で、「生体肝移植手術」が行われたとしたら、それは演劇として認知されるだろうか。たぶん、それは演劇になる。なぜならそこが劇場であるかぎり、その中で起きた/行われた出来事は、それを望もうと望むまいと、演劇で有り得るのだから。
 情熱的に、あるいは哀切に、あるいは暴力的に、女優はロルカを発詩する。なんだろう、これは? はい、ロルカの詩です。でも・・・・。

 ところが「場」はルイス・パスカルが口にする一つの言葉を合図に一変した。「アカリ!(おそらく日本語で、明かり、だと思う)」。そこに、この劇場に、まぎれもない演劇が突如として立ち上がったのである。「演劇」としか言いようのない「あるもの」がぼくたちを完璧に包み込んだのだった。
 興奮した。この至福。大声をあげて劇場を飛び出し、「全ての夜を集めて、叫」びたいくらいだった。ヌリア・エスペルは『血の婚礼』を演じる。先日スイスのテアトロ・マランドロが上演した『血の婚礼』の、太陽の輝きのような「具体」の陰に隠れていた、月のような演劇の真の輝きが、ここでははっきりと姿を見せる。
 ミューズ降臨! ああ、演劇の神様(としか言いようがないのでこう呼ぶ)、ここにいたのですか、さんざん探しちゃいましたよ、シアター・オリンピックス中を・・・・(ダンスのミューズは『ディスコルダンシア』で確認済み)。
 その後、舞台は再度反転し、「発詩」に戻ってしまう。「詩を朗読します」とルイス・パスカルが言う。だが、「演劇」は消え去らない、ミューズはその場から立ち去らないのである。
 これは本当に幸せな演劇の時間である。

『ロルカの闇』にはぼくが考える演劇の真髄がたしかにあった。




今日の御挨拶  木内弥子さん(美人)/小山史野さん(SPACダンス ※SPACの方たちは、公演がないときは舞台芸術公園のレストラン「カチカチ山」を手伝っているようなんだけど、小山さんはそこでフロアー係りをやってる。彼女にコーヒーを運んでもらいたいばかりに、『ロルカの闇』の上演前後、二度も「カチカチ山」に入ってしまった俺。ところで「カチカチ山」では日本平の野性のタヌキに餌づけしていて、よくテラスのところへタヌキがやってくる。でもたしか『カチカチ山』って話は・・・・。大丈夫か、タヌキくん?)

今日の目撃  夏木マリさん(女優+美人)


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