シアター・オリンピックス観劇記 #19 Ayame−鈴木大治


演出:テオドロス・テルゾプロス アティス・シアター/イスタンブール・フェスティバル
 『ヘラクレス2、13、5』
 グランシップ静岡芸術劇場 6月6日



 昨日のシンポジウムから、というか、シアター・オリンピックスが始まってからずっとハイナー・ミュラーのことが気になっていた。ミュラーの亡霊の件だけでなく。なぜ『2,13,5』なのか。『2,5,13』では駄目なのだろうか? というのはハイナー・ミュラーがこんなことを口にしているからだ。

ミュラー:もちろんある数が、脳に与える影響を軽く見てはいけない、数がもし…
クルーゲ:魔力を秘めていて…
ミュラー:その通り。たとえ恣意的に決められたものでも、数には魔力がある、そこからなにかが生まれるかもしれない。


 ふに落ちない。なにかミュラーのイメージに合致しないのだ。

 『ヘラクレス2、13、5』の幕切れ、唯一人の女性登場人物が、呪文のような、祈祷句のような言葉をつぶやいている。胸の前にかざした手の指が、タイピングをするように小刻みに動いている。暗転。舞台が闇に包まれる。女優の声が小さくなる、遠ざかる。あとは沈黙。
 カーテンコール。客席から拍手がおこり、舞台に照明があたる。そこにぼくたちが視たのは、舞台の中央で、なおも奇妙な指の動きをくり返していた女優だった。始まった拍手が一瞬とぎれ、そして彼女はその所作をやめた。ふと我に返ったように。あれ、終わったの、とでも言うかのように。
 この女性は明かりの消えた舞台の上で、ずっとこの演技を続けていたのか、と思い、ぼくは背筋がうすら寒くなった。

 これは呪術である。劇場がとてつもないサイキックフィールドと化している。これは冥府の物語。怖ろしい演劇である。舞台の上にいるのは死者ばかりだ。死者たちが、死者たちの物語を、死者たちのために演じているのである。だからぼくたち生者(観客)は固唾を呑んでそのなりゆきを見守るしかない。

 このような演劇の使命は観客の救済ではない。ここには「生」が存在しないのだから。
 このような演劇は芸能ではない。鎮魂の儀式である。典礼である。
 このような演劇は秘儀でなければならない。したがって日常的な現実世界/社会と隔絶された空間の中で、その場に立ち会う明確な意志を持った観客によって体験されなければならない。

 いったい演劇は誰が発明したのだろうか。ぼくはこう思う。人類史上最初に狂った人物がいる。周囲の人々がその狂人を見て、ここに起きている出来事はいったい何なのだろうかと思った。その瞬間、演劇は発見されたのである。越境者と居留者の出会いが演劇を生んだ。
 それからこうも思うのだ。昔々、まだ芸術というものが薄明の中にある頃、表現には領域の境界がなかった。演劇と宗教、政治との区別はなく、それらは必ずしも一体ではなかったけれども、同じひとつの場所に混在していた。世界は死者たちのような、神々のような目に見えぬナニカに律されていて、それは運命とか宿命と呼ばれることもあった。
 人々は見えないものを視るために、「劇場」に集まった。彼岸と此岸が出会う場所、死者の国と生者の国が接する場所、不可知と具体が衝突する場所、それが演劇の始まりの場所である。

 演劇は現実を変化させたりはしない。けれども演劇は、現実を支配し変容させる「向こう側のナニカ」に影響を与えるサイキックな技術であり戦略である。このような演劇は秘儀でなければならない。ではこのような演劇の使命は?

 ギリシア、トルコ、バルカン半島・・・・。今も隣人同士が、兄弟同士が殺し合っている。ギリシア神話によってモデリングされた物語が、ヨーロッパの歴史の中で、凄惨な現実としていまだに反復されていることの謎。この闇は深い。底なしだ。psychic,psychic,psychic...




今日の御挨拶  脇田千晶さん(美術家)/谷川道子先生/ダニエル・デノワイエさん/ロバート・ウィルソンさん


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