シアター・オリンピックス観劇記 #20 Ayame−鈴木大治


テアトロ・カマリン・デル・カルメン 『ドン・ジュアン』 野外劇場「有度」 6月6日



 南米の劇団がいまいい。勝手にそう思った。あえて断言する。いま南米の演劇には、我が国の八十年代バブル経済期直前の小劇場演劇(通称アングラ演劇を含む)のようなスピード感がある。アルゼンチンの劇団が上演した『幾何学』を観て、そしてこのコロンビアの劇団、テアトロ・カマリン・デル・カルメンの『ドン・ジュアン』を観劇してそう思った。これから南米の経済は景気が良くなるぞ。そしてはじける、か?

 舞台に長椅子。開演前から既に一人の男優が座っている。髭のスーツマン。微動だにしない。そういえばアルゼンチンの『幾何学』の時も、幕開けに登場する二人の俳優が、野外劇場の舞台後方の木立の中で、客入れからスタンバイしていた。
 なんか似ちゃいました、と思っていたところ、やっぱり似ているんだ、その中身も。ローラースケートのお姉ちゃん登場、ええっ、またですか! きみたち、衣装もなんだか『幾何学』とカブッテルみたいだぞ。もっとも『幾何学』は、物語に「硬質さ」があったんだけど、『ドン・ジュアン』は徹底して軟派だ。お笑い。脳天気にふざけまくる。ドリフというか・・・・、ああ、わかった、この演劇には「漫才ブーム」の頃のテイストがあるんだ(あのブームって何だったんだ?)。でもドタバタした演技術や本物の火を使ったりする演出なんか、かなり懐かしのテント演劇を彷彿とさせるものがあって楽しかった。
 ホントにデジャヴュでした。あの頃の狂乱を追体験しているような。なにしろ勢いがある。圧倒的に。で突っ走っているものだから、どこか暴走しちゃうというか、壊れちゃってるところがあるんだな。その辺がまたいいんだ。

 ぼくはコロンビアの事をほとんど知らない。テレビで何人かのサッカー選手の顔は憶えた。コカインの製造密売組織、なんとかカルテルってのも聞いたことがある。他は? ガルシア・マルケスってコロンビア人だったか?
 『ドン・ジュアン』を観たってコロンビアの事は何も判らない。コロンビアの文化的アイデンティティーを見いだすことなんか出来なかった。でも彼らの演劇は面白いんだ。ぼく(たち)が共有できる笑いのセンスに満ちているし、一種の「ベタ」な、ポップ化された表象が言語の垣根を飛び越えて、観客のウケを可能にしている。そこでは「すべてが許されている」。

 いいじゃん、別にコロンビアって国が判らなくたって。『ドン・ジュアン』、面白いもん。コロンビアの劇団、良かったもん。自国の固有文化ってそんなに偉いものなのか? 民族の誇りって何なんだ? 刹那的消費によって特定の情報が大量にばらまかれる。たしかにそうだけど、本当にそれで文化が均質化しているんだろうか? 民族主義の排他性ってのは、文化の多様性とか自国文化の伝統とかを力強く唱える連中の思考と、どこかで連動してんじゃないのか?

 例えばこんな場面。ドン・ジュアンを仇と狙う男二人が、彼の人相書きを持っている。こんな顔の奴だと、観客に見せると、それは三船敏郎だ。もう一人の男が、こんな奴だと客に見せると、それはどこの誰とも知れぬ市井の日本人である。笑ったね。何で笑ったんだろう?

 例えば、あ、これは鈴木忠志さんの演劇のパロディなのかな、と思えるような場面があって、ぼくはそう解釈して勝手に大笑いした。どことは言わないけど。いやー、是非ともそうであってほしいよ。民衆の側に立つ演劇ってのは、あらゆる権威を笑い物にしてほしい。真面目くさった、つまり観客の居ずまいを正させて、客席を沈黙させてしまうような一切の舞台表現を、引用・剽窃・再利用して笑い飛ばしてほしい。
 いくら自国の文化を見据えた演劇表現を展開したって、面白くないものは面白くないよ。いやいや、面白くないものが「ダメ」だと言っているんじゃない。ぼくは「面白くないもの」を擁護するからね。ぼくは実は「民衆の側に立たない演劇」が好きだから。こっそりだけどさ。

 唐突に終わる幕切れも良かった。なんの余韻も残さず、はい、終わりでございます。有無を言わさずこれは、『ドン・ジュアン』は、民衆の娯楽として「演芸」していた。

 この演劇も『幾何学』と同様、一日しか上演しない。何故? 南米の劇団だから? この発言って危ないですか?




今日の御挨拶  脇田千晶さん(美術家)


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