演出:ロバート・ウィルソン 『蝶々夫人』 アクトシティ大ホール 6月7日 |
オペラにはまるっきり関心がなかった。観るつもりもなかったのでチケットは買っていなかった。あのロバート・ウィルソンの演出であるにもかかわらず。
どうせなら同じウィルソンのオペラでも、ウィリアム・バロウズ原作の『ブラックライダー』を持ってきてくれればいいのに(オペラじゃなかったか?)。評判良かったみたいだから。それがかくなる事態に至ったのには、実に奇妙な因果があったからなのだが・・・・。
『蝶々夫人』。まさかだ。これほど素晴らしいとは。ロバート・ウィルソン、すげエ。観てよかった。ご招待、感謝してます、ロバート・ウィルソンさん。ありがとうございました。
その舞台は「世界の果て」である。抽象化された空間はこのうえなく美しい。もちろん凡庸なオリエンタリズムなどとは無縁。
表現/表象から具体をそぎ落としてゆくと何が見えてくるのか。ある物語の基盤がそこに現れる。通俗的なストーリーの底に、神話的な原型が潜んでいるのである。『蝶々夫人』の物語は異文化の出会いなどではない。忍従する女性の悲劇でもない。彼岸と此岸、向こう側とこちら側の出会い。越境の不可能性に抗う人々の物語だ。それは普遍的に、民族・文化を越境して共有される。
圧巻は第二幕である。海の向こうからやって来た船が港に着き、蝶々夫人は、船に乗っているはずの恋人ピンカートンが彼女の部屋を訪れるのを、一晩中待っている。舞台上には蝶々夫人と侍女と、それから蝶々夫人と異国の男の間に生まれた男の子。「蝶々さん」はピンカートンのため、部屋を花で飾ろうとする。舞台上の二人の女優(歌手?)の動きが止まる。時が止まり静止した彼女の姿は、末世に来臨する弥勒のように見える。ああ、こんなに小さな世界の終末。その美しさ!
半裸の幼い少年は、荒涼とした砂漠のような、果てしない浜辺のような舞台を歩きまわり、何かを拾っては、それを口に含む。やがて少年は母のかたわらに座り、彼女の手のひらに、拾い集めたそれを置く。
「花の種」であった。
時が動き出す。蝶々夫人の手の中で、種は芽吹き、育ち、そして花開く。彼女は部屋を花で飾る。
この演出には心底まいった。ぐっときたね。畜生、見えちゃったじゃないかよ、存在しない花がさ! なんなんだい、この真っ向勝負の直球は、サイコーに叙情しちゃってるじゃないか。くそっ、しびれちゃったぞ。
ナラティブな演劇が困難であるこの時代に、ロバート・ウィルソンはオペラという形式を借りて、最高にナラティブな演劇を造りあげている。くそっ、心底まいった。
今日の御挨拶 ジョン・ノブスさんご夫妻/小山史野さん/ルイス・パスカルさん
今日の目撃 ダニエル・デノワイエさん/シアター・オリンピックス参加劇団のメンバーあまた