シアター・オリンピックス観劇記 #23 Ayame−鈴木大治


テアトロ・マクナイマ 『トロイアの女』 舞台芸術公園野外劇場「有度」 6月11日



 たぶんぼくは敗北しているのだ。何を持って俳優の力を評価するのかと問われれば、「サイキック」と答えてしまうのだから。
 それは検証出来ない、それは実証できない。ぼくの思い込みや妄想にすぎないと一笑されれば反論出来ない。
 ぼくはテアトロ・マクナイマの女優たちの力に感嘆した。その気迫、意志の凝縮度の凄さ。悲しんで、叫んで、のたうちまわり。でも彼女たちの演技は、ただ力んでいるだけなのかもしれない。
 ぼくは困惑している。ぼくが積み上げてきた演劇観が崩れそうなのだ。
 カサンドラを演じた女優。あれはいったい何だったんだ? 舞台に登場すると、それだけで空間の質を一変させてしまうような俳優、これは言い古された俳優伝説、大衆ウケする神話にすぎない。ト、ずっと思っていたのが、完全にぶっ壊された。
 彼女が現れた瞬間、マジで鳥肌が立った。彼女がそこに存在するだけで、精神が揺さぶられるのである。

 なによりも、「俳優が役を生きる云々」という、ぼくが最も嫌悪する俗説を、この劇団がもののみごとに現実のものにしてしまっている衝撃。
 役柄になりきるのよ、登場人物の気持ちになって。ぼくはこうした物言いと徹底抗戦してきたつもりだ。あなたは殺人者よ、人殺しの気持ちになって。馬鹿か、おめーは、
 愕然とした。絶句した。テアトロ・マクナイマの女優たちは、この愚かなほど素朴な演技術を成立させてしまったのだ。
 こいつら本気だ。これ、演技じゃない。忘我? 違う。自分自身の言葉として台詞を言っているのに、それは自分ではない。あんた誰なんだ? 『トロイアの女』の登場人物だって? ええっ、あんた俳優じゃないんですか? その通りなのだ。最前列で舞台を観ているぼくの目の前の人間たちは、登場人物以外の何者でもない、そう信じさせられた。

 真っ向からの直球勝負は演技術だけではない。演出も然り。テクストの読み直しもへったくれもない。古代ギリシアの物語が、単刀直入に、今この時代の状況として上演されている。なんのケレンもなく、いささかのてらいもなく、悲劇が演じられる。ポストモダンな演劇法など、どこにもない。
 アウシュビッツ、エスニック・クレンジング、第三世界の内戦。現代史の暗黒、現在の惨劇。舞台上に現前する暴力性の強度。一歩も引かない。まったく救いがない。どうにもならない。

 そうか、すっかり忘れていた、演劇とはこういうものだった。これはぼくにとって福音なのかもしれないな。金メダル決定。俺的ベストワンは『トロイアの女』だ。もう一回観よう。



今日の御挨拶  木内弥子さん(美人)ご夫妻/ダニエル・デノワイエさん/ジョン・ノブスさんご夫妻/脇田千晶さん(美術家)/平岡寧子さん(女優)/大坪洋美さん(新聞記者)


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